万葉集の歌に「うらぐはし山」という記述が見られます。
漢字で書けば、「心妙し(うらぐはし)」と表記され、心にしみて美しい様子を表します。この場合の心(うら)は、「うら悲し」や「うらやむ」と同じで、外からは見えない裏の意味で、心や内心のことを表しています。
うらぐはし山とされる三輪山。
景行天皇陵近くを通る山の辺の道から、神奈備の三輪山を撮影します。
万葉集巻13の三輪山の歌
万葉集巻13の3222に、以下の歌が収められています。
三諸(みもろ)は 人の守(も)る山 本辺(もとへ)には あしび花咲き 末辺(すゑへ)には 椿花咲く うらぐはし山そ 泣く子守る山
うらぐはしの「くはし」をさらに見てみると、現代語の「詳しい」と同源であることが分かります。
物の組織が細やかで、洗練されている状態を言い表します。繊細で美しく、微妙に妙なるものを「くはし」と表現しました。表だってはっきりと美しいというわけではなく、どこか玄妙で、奥ゆかしい美しさを持った山、それが三輪山であると歌われています。
歌の始めの「三諸」を飛鳥の甘南備山だとする説もあるようですが、末辺に椿が咲いていると歌われていることからも、やはりこの万葉歌は三輪山を賛美しているのではないでしょうか。
大神神社祈祷殿。
三輪山は「いで立ちのくはしき山」なのです。
パワースポットとして注目を浴び続ける三輪山は、今や押しも押されぬ ”人も羨む神奈備” となりました。この羨むという言葉は、「心病む(うらやむ)」に端を発しています。心の中が病んでしまうぐらいに、ジェラシーを感じるということでしょうか(笑) うらぐはし山は、どこかで嫉妬を感じさせるぐらいに美しいのかもしれません。
うらぐはし三輪山と桜の風景。
三諸は人の守る山であり、泣く子守る山であると歌われています。
やまとことばを紐解けば、植物の「芽」は「目」になり、「花」が「鼻」になり、「実」が「耳」になったと伝えられます。目は目蓋(まぶた)と書くことからも分かりますが、五段活用の中で様々に変化していきます。「目」を動詞で表現する際には、「見る」「守る(もる)」となります。大切に見守るといったニュアンスの感じられる言葉ではないでしょうか。
泣く子を温かい目で見守ってくれている山。
三輪山麓で開花を待つささゆり。
人が見守ること、またはその目のことを古語では「守る目(もるめ)」と言います。
幼い子供が通学途中に巻き込まれる事件を見聞きする度に、「もるめ」の大切さを痛感します。古代の人々が感じたであろう、山が見守ってくれているという安心感。うらぐはし山は、崇拝の対象でありながら、海のように深遠な愛情を感じさせてくれる山でもあったのでしょう。
三輪公園から三輪山を遠望します。
滑り台の上に立って、ジャングルジムと三輪山の方を望みます。
万葉歌にある馬酔木や椿は、当時の人々にとって呪的植物であり、それを見ることは生命力を強くする魂振り(たまふり)の行為でもありました。三輪山麓の海柘榴市の地名にも、古代に咲いていた椿の花が回想されます。
うらぐはし山の懐に抱かれて、今日も一日を過ごすことの出来る幸せを噛み締めます。