大神神社には摂社・末社が数多くありますが、平等寺の近くに大物主命の御子神を祀る神坐日向(みわにますひむかい)神社というお社があります。いつもの参拝ルートを少し外れるだけで、あまり知られていない神社に出会うことができます。
大神神社摂社の神坐日向神社。
日向神社の鎮座する場所ですが、まずは大神神社の境内地図をご参照下さい。位置関係を確認したら、いつも通りの参拝ルートで二の鳥居をくぐり、玉砂利の参道を進んで手水舎まで辿り着きます。
蛇が坐(おわす)お馴染みの手水です。
蛇の口から出る聖水で身を清め、大神神社参詣へと出発です。
大神神社の穴場を求めて山の辺の道へ
手水舎で身を清めたら、ほとんどの参拝客がそのまま石段を上がって拝殿前へと進み出ます。
今回は少し順路を変えて、三輪山平等寺を通る山の辺の道方面へ足を伸ばしてみることにします。
衣掛杉。
手水舎から拝殿下を南へ向かうと、程なく左手に見えてきます。
謡曲「三輪」に謳われた伝説の杉です。苔の生えた覆屋の下に株のみが保存されています。
衣掛杉の通りにもささゆりの花が咲いていました。
古事記の時代から三輪山に自生していたササユリ。豊年講の皆様方が、播種から植え替えまで、多岐に渡るササユリの植栽奉仕に携わっていらっしゃいます。
山の辺の道へ出る前に、三輪山会館の方へ寄り道してみることに致します。
大神神社の斎館。
大神神社では年間を通して様々な祭事が行われます。大神様の御前で将来を誓い合う結婚式も多いことでしょう。祭事やイベントの前に、ご神職の方々が身を清められる場所が斎館です。
以前から疑問に思っていた場所だったのですが、大神神社の昭和の間に於いて、結婚式をご担当なさっているご神職の方から教えて頂きました。そう言われてみれば、斎館の「斎」は潔斎の「斎」にも通じます。斎き(いつき)館(やかた)という意味なんでしょうね。
斎館の前を通って道なりに進んで行くと、右手へ下って行く道があります。そこを下りて行くと、大物主命に献上する神饌を掌る御炊社(みかしぎしゃ)が鎮座しています。
御炊社のすぐ近くに、先ほど通った玉砂利の参道が拝殿へと続いています。初めて御炊社にお参りした時には、まさかこんな場所に大神神社の末社が存在しているとは思いもよりませんでした。
巳の神杉。
ちょっとだけ拝殿前に立ち寄ってみると、推定樹齢500年の御神木が姿を現します。巳の神杉前にはいつも、蛇の好物とされる卵とお酒が供えられています。苔生す神杉の根元には洞があり、その中に白蛇が棲むと言い伝えられています。
巳の神杉前の展示スペースに絵が奉納されていました。
実はこの絵をお描きになられている方ですが、いつも当館にお泊り頂いている常連のお客様でもいらっしゃいます。覚書として記帳させて頂き、そのまま山の辺の道方面へと足を向けます。
大神神社の天皇社。
三輪の神を丁重に祀ったことで知られる、第10代崇神天皇を祀ります。
三輪山麓に皇居を遷した崇神天皇。それまで皇居内で祀られていた天照大神を檜原神社に遷し、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に祀らしめました。その後、伊勢の地に遷座して伊勢神宮へと発展していくわけですが、その端緒を担った歴史に注目してみたいと思います。
天皇社の賽銭箱上に案内書きがありました。
玉子・酒等のお供物は献備台の上にお供え下さい 大神神社社務所
と書かれています。
きちんとマナーを守ってお参りするように致しましょう。
崇神天皇は四道に将士を派遣し、善政を地方に広めることにも尽力しました。全国の戸口を調べ、役務を課したことでも知られます。さらには池溝を開いて舟運や農業の発展にも貢献しています。崇神天皇はその数多くの功績から、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃えられました。
天皇社参拝の後、石段を下って山の辺の道へと戻ります。
天皇社も神宝社と同じく、初夏の銀竜草(ギンリョウソウ)の名所です。この石段の脇にも、にょろっと顔を出していた姿が今でも忘れられません(笑)
石段の左手下に、三輪山平等寺を案内する立看板が見えています。
成願稲荷神社。
春の初午祭の日には、参列者の方々に昔懐かしい旗飴が配られる神社としても知られます。成願稲荷神社から道なりに進んで行くと、いよいよ目的地の日向神社へと辿り着きます。
神坐日向神社。
成願稲荷神社から緩やかに左へ曲がり、さらに右へと道は続いていきます。平等寺の手前辺りに「日向神社」と書かれた案内板が掲げられていました。舗装されていない道を右手に辿ると、小さな社叢が見えてきます。
神坐日向(みわにます ひむかい)神社と書かれています。
神坐日向神社の御祭神である櫛御方命(くしみかたのみこと)・飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)・建甕槌命(たけみかづちのみこと)が案内されています。例祭は5月9日に執り行われるようです。
三輪山山頂の高宮神社と共に、式内社の神坐日向神社の論社とされます。
日向神社の鎮座する場所は、南北朝時代に三輪神主の西阿が活躍した三輪城のあった場所とされます。城山とも呼ばれ、現在も高台となっています。三輪山山頂の山宮に対する「里宮」という捉え方もできるのでしょうか。
大物主命の御子神である櫛御方命(クシミカタノミコト)が祀られていることから、御子宮(みこのみや)とも呼ばれています。
大行事社。
事代主神を祀る大行事社が、三輪山平等寺の上手に鎮座しています。日本最古の恵比須神社とされる三輪坐恵比須神社から東へ真っ直ぐ上がって行くと、その突き当りに大行事社が鎮まります。
この辺りには人気も無く、どこか張り詰めた空気が流れています。
酒・医薬の神様と仰がれる大神神社
酒は百薬の長と申します。
大神神社は古来より、酒の神様としても崇敬を集めています。
結婚式場の儀式殿の横から、薬の神様・狭井神社へと通じる「くすり道」が伸びています。参道の両脇には、薬業関係者が奉納した薬草や木が植えられています。くすり道を登り切って、左手に進めば狭井神社に到着します。右手に取ってしばらく進むと、左側に鳥居が見えてきます。杜氏の祖先神と崇められる高橋活日命を祀る活日神社です。
小高い丘陵を上がって行くと、活日神社の社殿がありました。
崇神天皇に召され、三輪の神様にお供えする酒を造ったとされる高橋活日命。
全国の酒造関係者からの信仰も篤く、酒造りの季節の前にここを訪れる杜氏も多いと言われます。
狭井神社の手前に鎮座する磐座神社。
鳥居の向こうには社殿が見られません。神の鎮まる磐座をご神座とし、薬の神様である少彦名命を祀ります。磐座信仰の根付く三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座と呼ばれる磐座群が鎮まります。三輪山の麓に位置する磐座神社の磐座は、辺津磐座の一つということになるのでしょうか。
古事記における大国主の国造りのシーンで登場する少彦名命。
オオクニヌシが出雲の御大(みほ)の岬に居る時、波立つ海の向こうからやって来る小さな舟が見えました。天のガガイモの実をくり抜いた小さな舟に、蛾の皮の着物を着た小さな神様が乗っていました。オオクニヌシが名前を聞いても答えません。すると、そこに居たヒキガエルが「案山子が知っていますよ」とオオクニヌシに言います。物知りの案山子に尋ねると、「これは、高天原の神産巣日神の御子のスクナビコナですよ」と教えてくれました。
そこで、今度は神産巣日神に尋ねたところ、「あぁ、確かにそれは私の子だ。手の指の間を潜り抜けていってしまった子なんだよ。お前と兄弟になり、一緒になって葦原中国(あしはらのなかつくに)を造るだろう」とおっしゃいました。
オオクニヌシと協力し合って国造りを進めた少彦名命が、ここ磐座神社に祀られています。
狭井神社の鳥居。
鳥居の真下に車止めが見られます。
和魂が祀られる大神神社拝殿に対し、狭井神社には荒魂が祀られています。力強いその霊的パワーから、病気平癒の神様として仰がれます。毎年4月18日に催される鎮花祭は「薬まつり」として知られ、その歴史は上古から連綿と受け継がれています。
万病に効くと言われる、御神水が湧き出る薬井戸も狭井神社の境内にあります。
狭井神社には三輪山登山の申し込み窓口もあり、聖山三輪山への入口として数多くの参拝客が集います。
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