歴史的町並みでその名を知られる今井町。
寺内町・武装宗教都市として一時代を築いた今井町を訪れる観光客も多いものと思われます。北には交通の要衝である近鉄大和八木駅、南には神武天皇陵が控え、そぞろ歩きの歴史散策にはうってつけの場所となっています。
左右対称の、実に美しい明治建築です。
華甍は今井町エリアの南東に位置しており、今井町見学の拠点として知られます。明治36年(1903)に社会教育施設として建設された建物で、奈良県指定文化財の旧高市郡教育博物館でもあります。昭和4年より、今井町役場としても長い間使用されていた経歴があります。修理に当たって旧状に復元され、今井まちなみ交流センター華甍として再生しています。
復元模型や炭火アイロンが展示される館内
今井まちなみ交流センター華甍の入館料は無料です。
基本的には月曜日が休館日で、開館時間は午前9時~午後5時となっています。
正面玄関から館内に入ると、係の方が事務室から出て来られ、出身県を記帳するように促されました。どうやら来館者がどこから来ているのかデータを取っておられるようです。平日だったこともあり、ぱっと見たところでは奈良県内からの入館者が多かったように思います。
今井町復元模型。
玄関口から入って右手奥に、リアルに再現された今井町の立体模型が展示されていました。
この角度から見ると、一番手前のV字水路は復元された環濠ではないでしょうか。春日神社の境内も見事に再現されていますね。右手上方に目線を移すと、大きな屋根が見えていますが、あれは浄土真宗本願寺派の称念寺本堂だと思われます。今井町は称念寺の境内地として発達した寺内町です。今井町の中心部分と言っても差支えないでしょうね。
今井町の四つ辻は、見通し悪く設計されています。追手から逃げ切るためとも言われる今井町の四つ辻。残念ながらこのアングルからでは、その今井町独特の四つ辻を確認することはできませんでした(笑)
展示コーナーで見つけた炭火アイロン。
明治時代に外国から入ってきた炭火アイロン。
外国の石炭は煙が出るため、煙突が付いているんだそうです。アイロンが二つ展示されていますが、向こう側のアイロンに煙突らしきものが見られます。炭火アイロンには蓋が付いていて、蓋を開けて火のついた炭を入れ、その熱でシワをのばします。随分原始的なアイロンですが、昭和30年代ぐらいまでは実際に使われていたそうです。
民俗資料として、炭火アイロンが展示されています。
福田家寄贈と書かれていますね。今井町の住民の方が寄贈されたものと思われます。
このプレート案内によれば、どうやら先ほどの手前に展示されていたアイロンは初期の電気アイロンだったみたいですね。今ではスチームアイロンに進化していますから、電気アイロンにさえ歴史を感じます。
19世紀中頃の桟瓦(さんがわら)。
両側に松、真ん中には猿がデザインされています。
この猿にはやはり魔除けの意味が込められているのでしょうか?「魔去る(まさる)」と「猿」を掛ける手法は、歴史ある町のあちこちで見られます。おそらくこの桟瓦の猿にも、よく似た意味合いがあるものと思われます。
今井町散策に便利な駐車場
今井まちなみ交流センター華甍裏手に駐車場が完備されています。
48台収容の広い駐車場で、別にバス専用駐車場もあります。
今井まちなみ交流センター華甍の駐車場。
紅白のバーの向こうに見えている建物が華甍です。右手の社叢は、歴史を感じさせる高市御縣神社の杜です。
駐車場の出入口にはゲートが設置されており、駐車券が発行されるシステムになっています。
駐車場の入出場可能時間が案内されています。
意外にも早朝から深夜まで入退場ができるようですね。「華甍」は午後5時に閉館しますが、その後も時間を気にせずに今井町を見学することができます。1日の最大料金は510円です。駐車料金が利用時間ごとに、それぞれ表で案内されています。利用時間が30分以内なら無料のようですね。
駐車場に車を停めて、今井まちなみ交流センター華甍の玄関口へと回り込みます。
お濠の跡や東屋を見ながら、ちょっとしたタイムトラベルの気分に浸ります。
今井まちなみ交流センター華甍の正面入口。
立派な建物ですね。
「奈良県指定文化財 旧高市郡教育博物館」と書かれた木札が掛かっていました。
海の堺、陸の今井。
自治都市として発展し、豪商の町家が軒を連ねた江戸時代の今井町。その商業都市の歴史を見学するに当たり、まずはここ華甍において今井町の予習をしておきましょう。
今井町を代表する豊田家住宅と音村家住宅
今井まちなみ交流センター華甍の入口から左手奥に足を伸ばすと、今井町を代表する町家の立体模型が展示されていました。
館内1階には町全体を写し取った今井町復元模型、映像シアター、図書閲覧室、展示コーナーがあります。2階には講堂が用意されており、講演会や各種研修会の会場となっています。
音村家住宅の立体模型。
骨組も露わに、その仕組みがよく分かるように展示されています。
音村家住宅は昭和47年5月15日に重要文化財に指定されています。
「細九」の屋号で金物問屋を営んでいた音村家。
17世紀後半頃に主屋を建て、それから主屋の西北部につのざしきを増築しています。さらに19世紀中頃には、西側に座敷が追加されました。逐次増築されていく音村家住宅を見ていると、今井町の歴史も決して遠い昔のことではなく、現在進行形で動いているのだなと感じさせられます。
音村家住宅の煙出し。
今井町の町家には個性的な意匠があちこちに見られます。掟や御触れなどにより、町家の造りには厳しい規制が敷かれていたと云います。そんな中にあって、町民たちが生み出した建築デザインには目を見張るものがあります。
今井町の町家に散見される虫籠窓なども、その中の一つではないでしょうか。太格子(しもみせ)、細格子(みせのま)、出格子窓、駒つなぎ等々、どれも一見の価値があります。
豊田家住宅。
豊田家住宅も、昭和47年5月15日に重要文化財に指定されています。
建物は寛文2年(1662)に造られたもので、今西家住宅と共に今井町における上層町家の好例として紹介されます。
豊田家住宅の西側には、歴代当主が収集、愛用した約4,000点余りにも及ぶ品々が展示される「紙半 豊田記念館」があります。豊田本家第12代当主が平成24年春に設立したばかりの紙半豊田記念館。毎年春・秋期前に展示品が入れ替えられ、今井町の歴史の細部に至るまでを学ぶことができます。
豊田本家の歴史は古く、昔から代々紙屋半三郎を襲名しています。
屋号から紙半の名で通っていますが、決して紙を生業にしていたわけではなく、主に肥料や綿、木綿を扱いながら両替商、大名貸しを営んで豪商の基盤を築いていきました。
豊田家住宅の壁面の意匠。
洒落たデザインですよね。何をモチーフにした意匠なのか気になるところです。
今井町復元模型を南東方向から望みます。
計画的に区画整備された町並みが浮かび上がります。
今井町の町割は西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って濠を渡り、外部の道路と連絡しています。今井町内部の道路は見通しが悪いことで知られます。屈折した道は敵の侵入を防ぐ効果がありました。弓矢や鉄砲の射通しを不可能にした当初の軍事目的の道は、後に豪商の生命や財産をも守る役割を果たしました。
自治都市として発展した今井の町政は、今西、尾崎、上田氏の惣年寄を中心に組織され、司法・警察権の一部をも握っていたと伝えられます。財を蓄える豪商を生み出した今井町には幕府も一目置くようになり、寛永11年(1634)には「今井札」の発行が許可されたほどです。大和の金は今井に七分と謡われ、その繁栄を謳歌しました。
今井町見学の第一歩に、今井まちなみ交流センター華甍をおすすめ致します。
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