奈良市鳴川町に徳融寺(とくゆうじ)というお寺があります。
「奈良市音声館」の南に位置する融通念仏宗のお寺です。元は元興寺の塔頭で、今より北方にあったようです。ちょうどこの辺りには徳融寺をはじめ、誕生寺、高林寺(こうりんじ)などの中将姫ゆかりのお寺が集まります。
藤原豊成と、その娘・中将姫の宝篋印塔。
左手向こうの石塔が中将姫、真ん中に四方石仏、右手の大きい宝篋印塔が豊成公の供養塔です。徳融寺の寺地は、かつての右大臣藤原豊成の邸宅跡と伝えられます。
尼寺の高林寺から移された宝篋印塔
歴史ある二基の宝篋印塔ですが、延宝5年(1677)に高林寺から移されているようです。
高林寺は徳融寺の南東方向に位置します。同じく融通念仏宗のお寺で、豊成公の屋敷跡に建っています。中将姫は高林寺で成人し、後に当麻寺に入って出家する人生を歩みます。
中将姫の宝篋印塔。
父豊成公の供養塔に比べれば、やや小ぶりの石塔です。
歌舞伎『中将姫雪責』などが公演される際、役者関係者が参じて舞台の成功を祈ったと言われます。継母からひどい仕打ちを受けたという中将姫の演目ですね。
豊成公中将姫石塔の案内板。
右、藤原豊成(とよなり)公 左、その娘中将姫の宝篋印塔。中央は珍しい四方石仏で正面が薬師、右廻りに釈迦、阿弥陀、弥勒の各如来像、鎌倉中期の端厳な作である。
豊成公中将姫の宝篋印塔は一説に墓塔ともいわれ、歌舞伎「中将姫雪責(ゆきぜめ)」などが公演される際には役者関係者が当所へ参り、舞台の成功を祈った。右石柱側面に役者名が見られる。
なお此の石塔伝説については、本堂前案内板を参照されたい。
笠塔婆四方石仏。
東西南北に顕教四仏が彫られています。正面に薬師如来ということは、この四方石仏は東を向いているのでしょう。
手前が豊成公の供養塔、こちらを向いているのは四方石仏の弥勒如来だと思います。
徳融寺は江戸時代初期に、融通念仏宗に属して大念仏寺の末寺となりました。大阪平野の大念仏寺とも関係の深いお寺なんですね。
徳融寺の敷地内には、継母により折檻された場所と伝わる「虚空塚」や「雪責の松」が残っています。さらにご本尊の阿弥陀如来立像(鎌倉時代)は、北条政子の念持仏であったと伝わります。なかなか見所の多いお寺ではないでしょうか。
毘沙門堂前の香炉台。
これは大海原の波を表しているのかもしれません。毘沙門堂は奈良市指定文化財の建物です。
中将姫親子の宝篋印塔が ”ならまちエリア” にあるとは知りませんでした。
古い町家が多く見られる奈良町。最近はお洒落なお店も増え、人気の観光地になりつつあります。”ならまちイコール元興寺” というイメージがありますが、その南端の徳融寺もかつては元興寺の子院だったんですね。