法隆寺聖霊院の向かって右側に厩(うまや)があります。
厩の中を覗いてみると、そこには聖徳太子の従者・調子丸と愛馬・黒駒の像が祀られていました。
法隆寺から業平橋を渡り、明日香村の橘寺へと続く道は「太子道」「筋違道」と呼ばれています。聖徳太子が斑鳩宮から飛鳥京へと通ったルートで、その途上には飽波神社、油掛地蔵、屏風杵築神社、白山神社などの名所が連なります。
法隆寺境内の馬屋。
小さな建物の中を覗くと、左側に調子丸、右側には黒駒の像が祀られています。
甲斐の黒駒を調子丸に飼育させた聖徳太子
法隆寺の東方には、調子丸古墳と駒塚古墳があります。
馬屋の中の調子丸と黒駒を葬ったとされる古墳ですが、この両者の関係はどのようにして生まれたのでしょうか。
実は西暦598(推古天皇6)年、聖徳太子が諸国から献上された馬の中から甲斐の黒駒を選び、舎人(従者)の調子丸に飼育させたというお話が伝わっています。
馬屋の中の黒駒像。
太子道のことは屏風杵築神社の記事でも触れましたが、要するに聖徳太子の出勤ルートになります。
屏風杵築神社のおかげ参り絵馬
屏風杵築神社の拝殿には、奈良県有形民俗文化財の「おかげ参り絵馬」が収められています。 糸井神社から寺川を渡って太子道を南下すると、式下中学校の近くに須佐男命(スサノオノミコト)を祀る屏風杵築神社が鎮座していました。 屏風杵築神社のおかげ参り...
太子は黒駒の背にまたがり、調子丸を従えて通ったと伝えられます。屏風杵築神社の前には白山神社があり、その境内には三者の像が建立されています。休憩の際、黒駒を繋いだという「駒つなぎの柳」も残されており、紡がれる歴史に想いを馳せます。
こちらは橘寺の黒駒像。
聖徳太子生誕の地と伝わる明日香村の橘寺。
法隆寺や白山神社と比べてみても、一番美しい姿の黒駒でしょう。
法隆寺聖霊院。
東室の南端部を改造して建てられています。
聖霊院の内陣奥には、平安時代の国宝聖徳太子像が手厚く祀られています。全国各地に聖徳太子像は伝わりますが、法隆寺の聖霊院に祀られているというだけで、その価値は推して量るべしですね。