近鉄忍海駅近くの葛城市歴史博物館から、線路沿いに南へ取り、さらに右に曲がってしばらく進むと、史上初の女性天皇とも伝えられる飯豊青命(いいとよあおのみこと)を祀る角刺神社が鎮座しています。
境内の片隅に分水石が祀られていました。
田畑を潤すなどして生活には欠かすことのできなかった分水石。かつて忍海の西にある分水地点に、戸分ケ(とわけ)の分水石と呼ばれる水流を分ける石が設けられていました。現在でもよく「分水路」とか「分水嶺」と表現しますよね。分水石よりもはるかにスケールは大きいですが、分水界を成している山脈などのことを分水嶺と言います。
分水の割合をめぐる争い
1828年(文政11年)に分水の割合をめぐって、忍海村と東隣の村の間で争いが起こりました。
隣村の主張は隣村6分で忍海4分、一方の忍海村の主張は忍海4分7厘で隣村5分3厘というものでした。忍海村の言い分は割と控えめだったようです。
葛城市忍海に鎮座する角刺神社。
時は流れて2年後、御所町の問屋新五左衛門の仲裁により、忍海村の主張通りの決着を見ることになりました。
飯豊青命が毎朝、鏡代わりに使ったと伝えられる鏡池の横に分水石が佇みます。
写真の分水石の右横に、今も水をたたえる鏡池が広がっています。
分水石を上から見るとこんな感じです。
なるほど、その境目が確認できます。
「分水石と九平さん」と題する忍海土地改良区による案内板。
忍海村に有利な裁定が下された理由が案内されています。
一種の度胸試しだったのでしょうか、火柱を立ててそれを抱える者がいれば、その村の主張を聞き入れるという裁決法でした。そこで、忍海村の九平さんが名乗り出て、犠牲的精神でもって火柱を抱いたことが記されています。九平さんの事績を称える位牌が忍海の西念寺に安置されており、今も毎年8月8日には供養法要が営まれているそうです。
分水石の向こう側に角刺神社の鳥居が見えます。
戸分ケの分水石は一時、住宅団地建設の際に撤去されましたが、九平さんの事績を忘れないようにと角刺神社の境内に移設されています。
拝殿に貼られていた火柱を抱く九平さんのイラスト図。
これはなかなか出来ることではありませんね。後ろに居る人たちが、恐怖を抱きながら見守っていたり、一心に祈りを捧げていたりと、その当時の様子が漫画風に描かれています。
忍海に住む方々が、今もなお九平さんのことを大切に思う気持ちが伝わって参ります。