高取れんじの道から土佐街道を上がって行くと、左手に植村家長屋門が見えて参ります。
かつての高取城主であった植村氏。
植村氏の念持仏が子嶋寺の千寿院に祀られていますが、日本一の山城とも称される高取城の下手には植村氏ゆかりの歴史遺物が幾つか見られます。高取城旧大手門通りに面するこの建物ですが、県重要文化財にも指定されています。
植村家長屋門。
高取城跡へと続く緩やかな坂道に堅牢な石垣が組まれています。植村家長屋門の手前には、武家屋敷の田塩邸が居を構えます。さらにその手前の児童公園入口には、高取城松の門が移築されています。
植村家長屋門の住所は、奈良県高市郡高取町大字下子島3番地です。
腰板張りの部分に施された海鼠壁(なまこかべ)が印象に残ります。住所からも分かりますが、この坂道をもう少し上がって行けば上子島エリアに入ります。そこには上子島元気広場があり、土日限定で足湯を楽しむこともできます。
なまこ壁が美しい高取藩の筆頭家老屋敷
植村家長屋門の見所は、やはり何と言ってもその美しい海鼠壁ではないでしょうか。
防火や防水の機能もあると言われるなまこ壁ですが、その名前の由来は ”なまこ壁の形” そのものにあります。壁面に平瓦を並べて貼り、その継ぎ目に漆喰を蒲鉾型に盛り付けて塗ります。盛り上がった目地の部分が海鼠の形に似ているのです(笑)
長屋門向かって左手に案内板がありました。
県文化財指定(昭和35年7月28日)
植村家長屋門植村家長屋門は、文政9年(1826年)の建立で、一重入母屋瓦葺造り、門内の東西に各四室の部屋がある。
江戸時代は、高取藩に仕える中間(ちゅうげん)たちが、それぞれの部屋に住んでいた。
近世武家屋敷表門の遺構を残している貴重な建物である。
当時は城代家老の役宅であったが、現在は旧藩主植村氏の住居となっている。
土佐街道を上がって行くと、左手に見えて参ります。
いかにも城下町といった風情の建物です。
間口39メートルにも及ぶ長屋門。
あまりに横長のため、カメラの構図の中に収まりません(笑) 白漆喰を盛り上げて作られた、格子模様のなまこ壁が重厚感を漂わせます。植村家長屋門は外部見学のみ可能となっています。建物の中に入れないのが玉に瑕ですが、今も住居として利用されていることを思えば致し方ありません。
門内東西の部屋に中間(ちゅうげん)たちが住んでいたと解説されていましたが、中間とは武士に付き従う雑卒(ざっそつ)のことを意味します。「仲間」と書くこともあり、武家における召使の役割を担った男のことを言います。ちょうど位で言えば、侍と小者の中間に位置していました。
植村家長屋門のなまこ壁。
方形の平瓦を貼り、その目地を漆喰で蒲鉾型に盛り上げています。菱形模様の海鼠壁もよく見かけますが、こちらはほぼ正方形に仕上げられています。サイコロの4を思わせるようなデザインも目を引きます。
土佐街道の下手では町家のかかし巡りが催されています。
メイン会場となっている街の駅城跡では、薬の町高取町をテーマにした薬草なども展示されていました。推古天皇が高取で薬狩りを行った様子なども案山子で演出されており、数多くの観光客で賑わいます。
陀羅尼助の店内にも案山子が展示されていました。
一般の民家の門前でも案山子が出迎え、町ぐるみで案山子イベントが行われていることが伺えます。
横倒しにした梯子が連なっているようにも見えます。
あるは ”あみだくじ” にも見えてきます(笑) 巧みに積まれた石垣の上に、美しいデザインのなまこ壁がよく映えます。
こういう窓にも歴史が感じられます。
窓の右下をよく見てみると、白の斑点模様が一つだけ欠落しています。また近い内に修繕されることでしょう。
長屋門のほぼ中央に位置する通用門。
通りの幅はさほど広くはありません。植村家長屋門の前は会社事務所のようで、その建物に背中をぴたりと付けて撮影します。ここから土佐街道をさらに上って行くと、阿波野青畝の生家、水車、上子島沢砂防公園、宗泉寺、七曲り、猿石、そして標高583.9mの高取城跡へと続きます。
植村家長屋門から砂防公園までの距離は1,100mほどです。所要時間20分といったところでしょうか。春の桜や夏の蛍などで賑わう砂防公園は自然に満ちた憩いの場です。木製吊橋やアスレチックなども備え付けられていますので、家族連れで訪れてみるのもいいと思います。
壷阪寺にも程近い場所にある植村家長屋門。
土佐街道は高取藩城下町の風情を感じながらウォーキングを楽しむにはうってつけのコースとなっています。
<高取町観光ガイド情報>