東大寺の近くにある吉城園(よしきえん)。
以前は有料入園でしたが、令和2年より無料開放されています。杉苔が綺麗だったことを思い出します。園内には茶室もあり、池の周りを回遊しながら楽しむことができます。そんな中、昔ながらのレトロな板ガラスに出会いました。

吉城園の手打ちガラス。
斜めから見ると、波打っているように見える板ガラスです。完全な平面でないところに、味わい深さを感じますね。

わずかな凹凸が残る手延べガラス
歴史ある日本庭園にマッチする板ガラスです。
何でもぴっちりと、左右対称のシンメトリーを尊重する西洋に対し、どこか歪(いびつ)でありながらも陰陽のバランスを大切にする日本。古風な手打ガラスにも、そんな価値観の違いが感じられます。

中から外を覗いてみたくなりました。
まるで水中にいるかのように、外の世界がぼんやりと見えるのでしょうか。そう極端ではなくても、それなりの見栄えがあるのでしょう。何もハッキリと見える必要はない。実は見えているものは、自分の心の投影に過ぎないのかもしれません。

奈良国立博物館と鹿。
事実は存在しない。存在するのは解釈だけだ。
そんな風にも言います。目の前に見える対象よりも、それを見る自分・・・その自分の心の状態が対象物を解釈している。どう解釈するかによって、対象物は違って見えてきます。

手打ガラスの案内書。
このガラス戸を正面から見ないで、少し斜めから覗くように見て下さい。
最近のガラスに比べ、凹凸があり、波打っているように見えます。
この製法は「手吹き円筒法」と呼ばれ、ガラスを吹き竿に巻き取り、息を吹き込んで円筒を作り、上下を切り取って縦割りにし、再加熱して延盤の上で平らにする方法だそうです。
日本では1907年に旭硝子(株)が設立され、この方法で板ガラスの生産を開始したのが板ガラス量産の最初といってよいようです。
1950年に入り、イギリスで厳密に温度・湿度等、周囲の状況を制御した溶融錫の上に、溶融したガラスをロールアウトして流し、両面共にきわめて平滑な板ガラスとする革新的な製造法「フロート法」が開発され、今日では板ガラスのほとんどがこの方法で作られているようです。
やはり西洋の価値観で上書きされたのでしょうか。
歴史は流れ、より便利なものへとシフトしていきます。簡単で合理的、さらなる利便性を追求していく現代です。後腐れなくスッキリしていていいのですが、奥深い余韻が欲しいですね。連続性や持続性、曖昧ながらもしなやかに続いていく強さ。

吉城園の手打ガラスが語り掛けてきます。
波のうねりのような人生サイクル。
おのれの解釈一つが、次なる事実を生んでいく。産み落とされた事実ですら、実は事実ではない。常に事実は存在しない、その現実を観る自分の心こそが全てである・・・と。


