平群町福貴にあるツボリ山古墳を訪れました。
住宅街の中にある古墳です。
今回私は平群町役場の駐車場から徒歩で向かいました。竜田川に架かる橋を渡り、西へ進みます。ツボリ山古墳を見学した後、藤田家住宅の周囲も巡り有意義な時間を過ごすことが出来ました。
ツボリ山古墳の横穴式石室。
埋葬施設には計2基の石棺が横たわっています。羨道部と玄室部に各々1基ずつ、凝灰岩製の石棺が納められていました。
7世紀初頭の古墳!福貴団地に残る刳抜式家形石棺
ツボリ山古墳の墳形は、円墳とも方墳とも言われます。
宅地開発の際、かなり削平を受けた古墳のようです。原形をとどめておらず、見所は両袖式の横穴式石室と2基の家形石棺ということになるでしょう。
南に開口する横穴式石室。
基本的には柵越しの見学となりますが、石室インも可能なようです。鉄柵のすぐ奥に見えている石棺は、羨道部の家形石棺です。棺蓋は既に失われていました。
ツボリ山古墳の周辺地図。
現在地は竜田川に架かる平群橋東詰です。国道168号の吉新(よししん)交差点を西へ入ると、程なく平群町役場があります。役場前が聖徳太子ゆかりの長楽寺です。川沿いからツボリ山古墳までは、割と急な坂道でした。
竜田川に架かる平群橋。
車も行き交います。
平群橋を渡ると、ツボリ山古墳の道案内がありました。
ここを右へ取ります。反対の左方向へ行けば、平群町総合スポーツセンターがあるようです。
川沿いに進み、このポイントで左折します。
ツボリ山古墳までは300mのようです。同じ方向に600m登って行けば、重要文化財の藤田家住宅に辿り着きます。
平群町コミュニティバスの「福貴団地」バス停。
ゆるキャラの長屋くんと左近くんが案内しています(^O^) 緩やかに右へ折れ、その先をもう少し進むと右手にツボリ山古墳がありました。
ここです。
少々分かりづらいですが、石段が付いていますね。歩道には方形の石タイルが埋め込まれ、ここが観光スポットであることを示しています。
案内板が出ています。
県指定史跡ツボリ山古墳の案内板。
ツボリ山古墳は、西から延びる丘陵上に築かれた20m前後の円墳ないし方墳と考えられる。埋葬施設は、全長8m、玄室長4.2m、奥壁幅2.2m、玄室高2.45mの規模を持つ大型の両袖式横穴式石室で南に開口する。
石室内には、玄室部・羨道部にそれぞれ一つずつの石棺が主軸に沿って安置されている。両者共に刳抜式の家形石棺で、凝灰岩製である。羨道部の石棺は棺蓋を欠くが、玄室部の石棺は棺蓋・身共に残存しており、棺蓋に六箇所の縄掛突起を持つことが判った。残りのよい玄室部の石棺は、棺身2.45m、幅1.17m、高さ0.8mで、高さ0.7mの蓋がのる。
当墳の築成時期は、石室構造や石棺の形式などから7世紀初頭に位置付けられ、平群谷の古墳の変遷を考える上で、学術的に重要な位置を占めるものである。 平成8年3月
ツボリ山古墳の墳丘。
真夏に訪れたためか、墳丘面は青々としていました。
築造年代は7世紀初頭のようです。
民家の迫る中、かろうじて残された古墳です。かなり勾配のある場所ですので、埋葬当初は遮る物も無く、見晴らしも良かったことでしょう。
玄室空間にもう一基の家形石棺が残ります。
手前の羨道部の石棺は追葬棺です。元来の石棺は玄室部のもので、棺蓋も残されていました。棺蓋には6つの縄掛突起も認められています。
羨道部の家形石棺。
玄室部の家形石棺。
石室内は鉄骨で補強されていました。
ツボリ山古墳の名前ですが、所在地の字・坪地に由来するようです。
「ツボチ山」がいつの間にか、ツボリ山に転訛したものと思われます。
羨道の側壁でしょうか。
こういう“残欠石”のようなものを見ると、歴史の遺物は残しておかなければと思います。
開口部近くからの景色。
遥か彼方に照明設備が見えていますね。あれは総合スポーツセンターのグラウンドかもしれません。
平群エリアは山と谷が折り重なる地形です。
その斜面に家々が連なり、独特の景観を生み出しています。
奈良県指定史跡のツボリ山古墳。
ツボリ山古墳の南方には、西宮古墳や烏土塚古墳があります。その他にも剣上塚古墳、四ツ辻古墳、宮山塚古墳、宮裏山古墳、三里古墳など、古墳好きなら一度は訪れておきたい密集エリアだと思います。