天理市櫟本町の和爾下(わにした)神社。
西名阪自動車道のすぐ北側にある古社です。ジメッとした杜の中に牛頭天王を祀ります。素戔嗚命が御祭神で、毎年7月14日には祇園祭が行われます。
和爾下神社の拝殿。
銅板葺きの唐破風を付けていました。拝殿の奥には、重要文化財指定の本殿が控えます。
国道沿いの鳥居から本殿までは結構距離があります。拝殿の下方には、柿本人麻呂の柿本寺跡が残ります。柿本寺は和爾下神社の神宮寺だったのでしょう。柿本寺跡からは白鳳時代の古瓦が出土しており、円型礎石4基が今も散在しています。
和爾下神社古墳の後円部に建つ治道宮
和爾下神社は櫟本の鎮守神です。
東大寺山古墳群を形成する前方後円墳の上に鎮座しており、境内には独特な空気が流れています。
和爾下神社の社号標と鳥居。
国道沿いに建つ標石に「本殿国宝」と刻みます。和爾下神社の本殿は重要文化財ですので、おそらく一昔前のものでしょう。和爾下神社の駐車場ですが、ここから参道を進んだ左手奥にありました。
「みがきやすい」歯ブラシの天理店。
和爾下神社の北方、国道169号線沿いにあります。
その一つ南側で店舗を構えるのが中西ピーナッツさんです。
ピーナッツオブジェの向こうに見える木々は、和爾下神社の参道沿いに当たります。
現在の参道は、灌漑目的のために改修されています。水路を移し、道も真っ直ぐに造り直したようです。和爾下神社には「治道宮(はるみちみや)」という別称がありますが、参道整備の歴史に由来しているようです。
鳥居をくぐると、右手に大きな石鉢がありました。
手水石でしょうか。その向こうに見えるのは、神武天皇の遥拝所です。参道を進むと、左手に明治天皇遥拝所もありました。
さらに進んで行くと、本殿と駐車場を案内する道標が立っています。
ここを左折します。
右向こうに見えているのは、和爾下神社の摂社群です。天照皇太神社をはじめ、住吉神社、天満神社が祀られていました。この道を真っ直ぐ行けば、赤土山古墳へアクセスします。
赤土山古墳と和爾下神社の道標。
前方後円墳のマーク付きですね。
小さなエリアに3社が集まります。
左側が天照皇太神社でした。民家に接するように小さな社殿が並んでいますが、新たに整備された場所だと思われます。
左へ曲がると、すぐに無料駐車場が見えてきました。
この駐車場も以前は無かったように思います。未舗装で車止めブロックもありませんが、駐車場があるだけで有難いですね。
駐車場からさらに奥へ進むと、左手に柿本人麻呂の歌塚があります。
蛙の石像に囲まれる人麻呂像は、どこを向いているのでしょうか。石燈籠中台の格狭間がハート形に彫られていますね。
和爾下神社の境内図。
本殿向かって左側には、若宮神社(言代主命)と大年神社(大年神)が祀られています。
和爾下神社古墳の案内板。
東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳である。全長約120m、後円部直径約70m、高5m、前方部幅50mである。前方部が短く、端部が両側へ撥形に開く特異な形態である。当古墳と東大寺山古墳、赤土山古墳、およびシャープ総合開発センター内に所在する古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。
当古墳から東北約800mには和爾の集落があるが、この周辺一帯は、古代大和政権の一翼を担った和爾氏の本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる。
内部主体や副葬品は明らかではないが、墳丘西側には石棺材があり、また昭和59年の防災工事に伴う調査において一基の埴輪円筒棺が検出された。これらの遺物により古墳の築造時期は、4世紀末から5世紀初頭と推定されている。 天理市教育委員会
「みがきやすい」歯ブラシの店舗から北へ行くと、天理教施設の看板が出ています。
そこを右折して上がって行くと、東大寺山古墳があります。中平銘鉄刀(ちゅうへいめいてっとう)が出土した古墳ですが、和爾下神社古墳と並び東大寺山古墳群を形成していたんですね。
摂社の十二神社。
ここから参道沿いに、様々な境内摂社が祀られていました。厳島神社、熊野神社、琴平神社、稲荷神社など、お馴染みの神社が並びます。ちょっと意外でしたが、琴平神社は大物主神を祭神とするようです。
木漏れ日を受けながら、和爾下神社の摂社が並びます。
右へ折れ、ここから一直線に本殿へと向かいます。
結構段数のある石段ですね。どうやら和爾下神社古墳(前方後円墳)の後円部に社殿が建っているようです。バチ形の前方部に当たるのが柿本寺跡です。
拝殿前に到着。
両側に狛犬が座し、御祭神を守ります。
和爾下神社の御祭神は3柱で、素戔嗚命と大巳貴命、稲田姫命とされます。
和爾下神社の御神紋。
五瓜に唐花だと思われます。基本的には木瓜紋ですね。
京都の八坂神社も「唐花木瓜紋(からはなもっこうもん)」が目印です。スサノオノミコトを祀る点では同じですから、神紋も似たようなものになるのでしょう。
和爾下神社(本殿重要文化財)
神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄へ水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直ぐに作らせたので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。和爾下神社古墳の上に祀られた神社で櫟本の地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本鎮守の神社である。
この治道社の(春道社とも書く)祭神は素戔嗚命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに当たると考証されて社名を和爾下神社と定めた。
今の社殿は、三間社流造り、桧皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。
祭神:素戔嗚命 大巳貴命 稲田媛命
例祭:7月14日の祇園祭 10月14日の氏神祭礼
拝殿前の牛像。
いわゆる狛牛ですが、見たところ砂岩製ですね。牛頭天王に由来する狛牛だと思います。静かに座っていますが、素戔嗚のパワーを感じさせます。
墳丘上に建つ和爾下神社拝殿。
古墳と神社が無数にある奈良県内ですが、墳丘の上にこんな立派な社殿が建っているとは!以前に訪れた時は工事中だったため、拝殿を見ることが出来ませんでした。
拝殿左脇の摂社・大年神社。
境内図から察するに、この奥に若宮神社を奉じるのでしょう。
和爾下神社の年間行事。
春の行事日程が掲示されていました。お田植祭(おんだ祭)に始まり、節分祭(上社)、恵美寿祭(お仮家殿)、在原神社例祭と続きます。
上社って何だろう? と調べてみると、和爾下神社には上社と下社があるようです。
「延喜式」によると、和爾下神社は二坐存在します。天理市櫟本町宮山(上社)の他に、大和郡山市横田町に下社が鎮座しています。櫟本町の方を上治道天王、横田町の方を下治道天王と呼ぶようです。
灯篭の竿に「治道宮」と刻みます。
国道を挟んで西側の在原神社は、和爾下神社奉賛会に係る神社です。武内宿禰を祀る高良神社も奉賛会に名を連ね、秋祭りには八幡神社への渡御があるようです。