与楽鑵子塚古墳!横穴式石室内の火葬跡

高取町与楽の与楽鑵子塚古墳を訪れました。

墳形は2段築成の円墳で、被葬者は渡来系氏族・東漢氏(やまとのあやうじ)の有力者ではないかとされます。今回の墳活は与楽カンジョ古墳~貝吹山城跡~寺崎白壁塚古墳~調査中古墳~与楽鑵子塚古墳のルートを辿りました。

与楽鑵子塚古墳

与楽鑵子塚(よらくかんすづか)古墳。

6世紀中頃~後半の築造とされます。

天井の高いドーム型の玄室で知られ、国の史跡になっているようです。貝吹山を下山し、北側から撮影しています。墳丘上にたくさんのタケノコが生えていました。

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石室内に残る木棺の火葬跡!円墳周りの自然

与楽鑵子塚古墳の石室内は盗掘されていました。

副葬品は幾つか残されており、木棺打ち付けの鉄釘や銀の指輪、釣り針、さらにはミニチュア甕や鉄製馬具などが挙げられます。床面には炭化物が残り、火葬の痕跡と見られています。片袖式横穴式石室の内部で、遺体を木棺ごと焼いたようです。

与楽鑵子塚古墳

南方から墳丘を見ます。

手前に春の蓮華が咲いていました。

火葬で思い起こすのが持統天皇です。明日香村の天武持統天皇陵に埋葬されていますが、日本で初めて火葬にされた天皇として知られます。持統天皇は西暦700年に、僧道昭を日本の歴史上初めて荼毘に付しています(火葬)。その2年後の崩御にあたり、自身も強く火葬を望んだと伝わります。その史実を踏まえれば、僧道昭よりも約150年前に火葬が行われていたことになります。

与楽鑵子塚古墳の墳丘登り口

墳丘への登り口。

木の階段が取り付けられていますが、既に一部崩壊状態でした。

与楽鑵子塚古墳の墳丘上からの眺め

円墳の墳丘上からの眺め。

南方を視界に収めます。与楽鑵子塚古墳の前にはテントが張られていました。継続して調査が行われているのでしょうか。

与楽カンジョ古墳

与楽鑵子塚古墳の南方にある与楽カンジョ古墳

6世紀後半の円墳で、貝吹山から南に延びる越智丘陵突端に築造されています。カンジョ古墳も渡来人の墳墓と考えられ、漢字では「乾城古墳(かんじょうこふん)」と記します。ちなみにカンジョ古墳もドーム状の石室を持ちます。

与楽鑵子塚古墳と竹林

貝吹山城跡から白壁塚古墳を見学し、その足で与楽鑵子塚古墳へ向かいます。

前方にカンス塚の墳丘が見えてきました。

寺崎白壁塚古墳

こちらは寺崎白壁塚古墳。

埋葬施設は漆喰の塗られた横口式石槨です。

与楽鑵子塚古墳と筍

与楽鑵子塚古墳とタケノコの群生。

墳丘の周りには、元々竹が繁茂していたようです。調査のために刈り取られて整備されましたが、やはりこうやって生えてくるのですね。自然のチカラを感じます。

与楽鑵子塚古墳のタケノコ

成長の早いタケノコ。

もう明日になれば、また違う光景が広がっているのでしょう。時が止まった石室内と、動き続ける墳丘上の自然。

与楽鑵子塚古墳

勢いを感じます。

外から見ても、天井の高さがうかがえる墳丘ですね。

与楽鑵子塚古墳

墳丘上をウロウロしましたが、所々に掘られたような穴がありました。

与楽鑵子塚古墳

現在は石室が埋め戻され、見学することは出来ません。

今までにも色んな石室を見て来ましたが、まだドーム状の石室内に入ったことがありません。カンジョ古墳や沼山古墳は、石室の入口から覗き込むスタイルです。近くの真弓鑵子塚古墳も埋め戻されており、中を確認することは出来ません。

与楽鑵子塚古墳

スギナでしょうか。

土筆(つくし)と同じ地下茎から出てくるスギナ。時期的には土筆が先で、スギナは後になります。墳丘の周りも、一分一秒と時計の針を着実に進めているようです。

与楽鑵子塚古墳と蓮華

蓮華の向こうに墳丘を見ます。

石室の見学が出来ない古墳も多くあります。何も石室にこだわらず、周りの自然に目を移してみるのもいいですね。季節ごとに面白い発見があるかもしれません。

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