三輪山の南の麓に金屋と呼ばれる集落があります。
金屋は三輪小学校区に入っているため、私も小学校時代には金屋出身の友人がたくさんできました。金屋という地名は、古くから鉄の製錬が行われていたことに由来します。
山の辺の道沿いにある金屋の石仏。
桜井駅から山の辺の道を出発すると、仏教伝来之地碑~海柘榴市観音堂~金屋の石仏~磯城瑞籬宮跡~平等寺~大神神社へと続きます。
三輪遺跡から発見された鞴(ふいご)の火口
金屋の歴史。
私が三輪小学校へ通っていた頃は、初瀬川沿いに団地が出来たりして金屋は新興住宅地といった趣でした。
川沿いから離れて三輪山の麓に近付くと、昔ながらの金屋の集落が今も残されています。山の辺の道はこの古い道を辿るルートになっています。
山の辺の道を案内する道標。
金屋で活躍していた鋳物師(いもじ)は、北葛城郡の下田鋳物師と共に、中世大和の特権的な職業であったと伝わります。
製鉄の金屋に“石の仏様”とは少しミスマッチな感はありますが、それぞれに金屋の歴史を今に伝える拠り所となっています。
二体ある金屋の石仏の弥勒様。
金屋という地名から、全く関係ないのですが金田、金本、金沢等々の苗字を思い出してしまいます。
「金」と名の付く苗字のルーツは大陸の朝鮮半島にあると聞いたことがあります。当館にもよくお泊り頂いた考古学者の樋口清之氏の弟子に当たる人物に、苗字研究家の丹羽基二氏がいらっしゃいますが、丹羽氏の著作にも同じようなことが書かれていた記憶があります。
金屋の石仏の釈迦如来様。
山の辺の道を北へ進んで行くと、同じく三輪山の麓に相撲発祥の地とされる相撲神社があります。そこの住所は穴師となっています。穴師にも、採鉱技術関係者が居住していました。
穴師は穴を掘り、採鉱に従事した部族の呼称です。
三輪遺跡の弥生式土器の包含層からも、鉄の精錬を匂わせるふいごの火口が発見されています。その昔、鋳物師(いもじ)が活躍していたであろう金屋の地を、歴史を再考しながら歩いてみましょう。