談山神社の西大門跡に女人禁制を示す石柱が建っています。
藤原鎌足を祀るこのエリアも、かつては女人の立ち入りを禁じていたようです。談山神社はその昔、多武峰妙楽寺というお寺でした。明治時代に今の談山神社となり、同時に女人禁制も解かれたようです。
西大門跡の女人禁制石柱。
今でもはっきりと読み取れる字体で刻まれます。
談山神社の境内はかなり高低差があり、ここから十三重塔を仰ぐ境内を左手に見ながら参道を下って行くと、高麗門と呼ばれる東大門に行き着きます。東大門は存在していますが、残念ながら西大門は残っていません。その跡地では花崗岩製の石仏と、かつての歴史を偲ばせる女人禁制石柱のみを見ることができます。
結界地に建つ人権教材の石柱
今の世の中、女人禁制と聞くだけで時代錯誤のようなものを感じます。
婦人参政権や男女雇用機会均等法以降、益々人権問題には敏感にならざるを得ません。かつてはその場所へ行くだけで、女性であることを理由に立ち入りが制限されたのです。今でも差別と区別の違いは明確にありますが、どこで線引きをするかはその時代によって異なります。
女人禁制石柱の解説文。
この地は旧多武峰妙楽寺の西門の跡地で女性の立ち入りを禁じた結界地であった。旧多武峰妙楽寺では中世から近世まで仏教や修験道の影響を受けこの石柱からの女性の立ち入りを禁じた。
明治元年の廃仏毀釈により妙楽寺は談山神社となり、同時に「女人禁制」も解かれた。
この石柱は、女性の人権にかかわる歴史的遺物として後世に遺し人権文化創造の教材とする。
平成13年3月 桜井市談山神社
”人権文化創造の教材”という箇所が印象に残りますね。
西大門跡の「下乗」碑。
東大門にも下乗石がありましたが、反対側の西大門跡にもありました。ここから先は、馬上から降りてのお参りとなります。下馬評などの言葉で知られる、いわゆる下馬のポイントですね。
西大門跡から外へ出ると、多武峰中興の祖・増賀上人の墓に通じています。念誦窟(ねずき)と呼ばれる墓で、その独特の形状に目を奪われます。人気(ひとけ)のない山道を進んでアクセスするのですが、その途上もまた雰囲気があっておすすめです。
桜井市内最古の在銘石仏
西大門跡周辺には石仏も残されています。
弥勒触地印を結ぶ鎌倉時代の石仏です。山深い多武峰の地に、こうしてずっと祀られていることを思うと感慨も一入ですね。
談山神社西大門跡の石仏。
石垣の上から参拝客を見下ろします。この場所で一体何人の参拝客を見続けてきたのでしょう。
談山神社西大門跡の石仏案内。
西大門跡の北側、石垣の上に置かれた石仏で、花崗岩の自然石で作られている。高さ1.51m、幅0.79m、奥行0.37mの石に、像座高0.88mを測る。一石造り出し、半肉彫り、左手は甲を表にした弥勒触地印で、光背部左右に、文永3年8月8日奉造立。
大勘進正延大工藤井延清とある。市内の在銘石仏としては最古(1266年)のもので、全体おだやかな表情と姿で、細身の石仏の系統に入る。 桜井市教育委員会
案内板の後方に石垣、さらにその上に石仏という構図です。
女人禁制だった時代は、この場所で立ち止まって引き返す女性もいたことでしょう。主に男性の往来を見てきたものと思われますが、やむなく引き返す女性たちの祈りも受け止めてきたはずです。
念誦窟の案内看板。
西大門跡から山を下って行くと、明日香村の石舞台古墳へとアクセスします。蘇我馬子の墓ではないかと言われる巨大方墳ですね。
石舞台古墳へ通じる車道。
車で降りて行くこともできます。道が付いたことで、多武峰と飛鳥の行き来が大変便利になりました。飛鳥方面からみれば、談山神社の入口は西大門跡ということになりますね。
西大門跡で目にした女人禁制の石柱。
今も多くのことを語りかけてくるような気が致します。