奈良県高市郡明日香村阪田にある都塚古墳。
その墳丘が階段状をしており、ピラミッド型古墳として注目を集めた古墳時代後期の方墳です。被葬者は蘇我稲目ではないかと推定されています。馬子の父に当たる蘇我稲目の墓なのか?飛鳥の歴史の謎を読み解く際に、とても重要な位置を占める古墳ではないかと思われます。
都塚古墳の横穴式石室の中。
玄室内には凝灰岩製の刳抜式(くりぬきしき)家形石棺が安置されています。
この他にも棺台と推定される自然石が見つかったことから、木棺も存在していたのではないかと言われます。横穴式石室は時を経てから追葬することのできるお墓スタイルです。竪穴式石室だと一度埋葬してしまえばそれまでなのですが、横穴式石室の場合は簡単に追葬が可能です。果たして都塚古墳でも追葬が行われたのでしょうか。
西暦570年に64歳で没した蘇我稲目の墓
都塚古墳の被葬者は、豪族蘇我氏の礎を築いた蘇我稲目ではないかと言われています。
稲目が大臣(おおおみ)の地位に就いたのは欽明天皇5年(536)です。以後、30年余りもの長きに渡って朝廷の権力中枢を握ることになります。古代豪族といえば蘇我氏がすぐに頭に浮かぶぐらい、日本史の教科書でもすっかりお馴染みです。蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿と続く系譜は645年の大化の改新(乙巳の変)で終焉を迎えます。
開口部へと続く道。
封土こそ失われていますが、おそらくこの玄室へ続く道が羨道に当たるものと思われます。
都塚古墳の石室内からは鉄鏃、刀子、須恵器、土師器などが出土しています。墳丘には地震が原因とみられる地割れ跡も確認されたそうです。天理市の赤土山古墳などでも地震による地滑りの跡が発見されましたが、天変地異をものともせずに現代に蘇る古墳に興奮を覚えます。
稲目の子に当たる馬子の墓(石舞台古墳)が、300mほど離れた眼下に位置していることも興味深いですよね。石舞台古墳の築造年代は7世紀前半ですから、6世紀後半に造られた都塚古墳とも符合します。
都塚古墳の天井石。
実に巨大です!
間に挟まった小石が落ちて来ないか、ちょっぴり不安にもなりますね。不思議とこの状態で、絶妙なバランスが保たれているのかもしれませんが(笑)
歴史を振り返れば、古墳時代は約400年間続いています。
お墓に葬られた被葬者がいつも話題になりますが、そのほとんどが不明のままです。我が国最大の前方後円墳・大仙陵古墳(大阪市)も仁徳天皇陵と言われていましたが、その真相は謎のままです。
ピラミッド型方墳・都塚古墳の被葬者は蘇我稲目であると仮定して、これからも様々な調査が進められていくものと思われます。
くつな石の手前に位置する都塚古墳へのアクセスルート
都塚古墳への道順をご案内致します。
石舞台古墳の場所をご存知の方であれば、その行き方に迷うことはないでしょう。
道中には道しるべも幾つかありますので、周りの風景を楽しみながら安心して辿り着けるのではないでしょうか。
石舞台古墳からさらに上手へ上がって行くと、祝戸エリアを案内する道標が見えて参ります。
棚田風景の絵と共に祝戸が案内されていますが、ここから約300mの距離のようです。目的地の都塚古墳へは祝戸方面へ向かいます。
Y字路の左方向、155号線を辿れば多武峰や吉野方面にアクセスします。数年前に、多武峰の談山神社から気都和既神社を経由して石舞台古墳までのウォーキングを楽しんだことがありましたが、ちょうどあの時の方向に重なります。
石舞台古墳前の花園には、既に菜の花が開花していました。
桜の季節より少し早いタイミングで開花することは知っていましたが、まだ1月末頃だというのに黄色い花を咲かせていました。こんなに早く咲くものなんですね。
車向けの道路標識の脇に、ハイカー向けの道案内が出ていました。
どうやら祝戸方面へ200mほどの場所に都塚古墳があるようです。ちなみに南渕請安墓も同列に案内されていますが、都塚古墳よりもかなり遠い所にあります。方向も途中で分かれていますので、観光客の方は注意が必要です。
今来た道の石舞台古墳方面へ下って行けば、岡寺や橘寺にも通じています。
道案内からしばらく進むと、冬野川に架かる都橋が見えて参ります。
飛鳥川の支流に当たる冬野川。
この橋を渡って、さらに目的地を目指して歩を進めます。
しばらく祝戸方面へ歩いていると、左側に「くつな石」を案内する道標が立っています。
ここを左折して、長閑な田園風景の合間を上がって行きます。
飛鳥には謎の石造物が多数存在していますが、明日香村阪田集落の山中にあるくつな石も、そんなミステリーストーンの内の一つです。都塚古墳はくつな石へ向かう途中の曲がり角にあります。
ここから都塚古墳へは、残すところあと100mですね。
先ほども出ていた南渕請安の墓ですが、ここを左折せずにそのまま真っ直ぐ集落の中へと入って行きます。南渕請安墓の観光ガイドは、また別の機会に譲ります。
左折してしばらく進むと、左手にこんもりとした丘陵が見えて参ります。
あれが都塚古墳です。
さぁ、都塚古墳に辿り着きました。
さすがにここは明日香村です。観光客にも分かりやすいように道標が整備されていますので、迷うことなくアクセスすることができます。石舞台古墳からも十分に徒歩圏内ですので、石舞台古墳見学のついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
都塚古墳は横穴式石室に納められた家形石棺を無料で見学することができます。わずかではありますが、石舞台古墳見学には入場料が必要です。石舞台古墳では棺を見ることができませんが、都塚古墳では柵越しに見学が可能です。
都塚古墳墳丘と横穴式石室の開口部。石室の入口には柵が設けられているようです。
向かって左側に案内板らしきものが見えます。
金鳥塚に開口する横穴式石室
都塚古墳には面白い伝説が言い伝えられています。
お正月元旦に金鳥が鳴くというのです。
金鳥ってどんな鳥だろう?と想像を膨らませてみるのですが、皆目見当がつきません。神武東征にまつわる金鵄伝説なら分かるのですが、その場合、金鵄(きんし)は黄金の鵄(とび)のことを意味しています。早朝に鳴くのであれば、鶏がイメージされますね。天照大神の天岩戸伝説にも登場する鶏は、古来より神性を帯びた鳥であったはずです。
都塚古墳の解説パネル。
都塚古墳は正月元旦に金鳥が鳴く伝承があり、金鳥塚とも呼ばれている。
横穴式石室に家形石棺を納め、6世紀後半の後期古墳である。墳形は東西41m、南北42mの方墳で、1~1.5mの周濠がめぐっている。墳丘は川原石を2~3石積み上げた石段が、少なくとも6段以上あり、非常に特殊な構造をしている。
埋葬施設は南西に入口を設けた横穴式石室で、全長12.2mで、玄室の長さ5.3m、幅2.8m、高さ3.55mである。床面にはバラスが敷かれており、暗渠排水溝が設けられている。この中央部に二上山産の凝灰岩で造った刳り抜き式家形石棺がある。石棺の長さ2.23m、幅1.46m、高さ1.72mである。出土遺物には鉄鏃、刀子、須恵器などがある。周辺には石舞台古墳や塚本古墳などの大型方墳があるが、都のはこの中で最も古く位置づけられ、しかも、段状の石積みをもつ特殊な構造をしていることから、飛鳥前史を理解するためにも、重要な古墳といえる。
特異なピラミッド型の墳丘がイメージ図に描かれていますね。
羨道部分の墳丘は失われているようです。
オープンエアーの羨道の先、ちょうど玄門付近と思しき場所に柵が設けられていました。
側壁も実に巨大です。
都塚古墳もそうですが、古墳時代後期にもなると、前期に築かれた大型前方後円墳は見られなくなります。その代わりに、方墳や円墳が多数築かれるようになります。小さな古墳ではありますが、石室内を見学できたりと観光客向けになっています。
小さな古墳とは言っても、そこに使われる石は大きく私たちの度肝を抜きます。
玄室内を撮影。
奥壁や側壁には小さな石も散りばめられています。石舞台古墳に比べれば、その築造技術は未熟に映ります。全体的に雑多な印象を受ける辺りが、歴史的にもより古い範疇に入れられる要因になっているものと思われます。
地面から天井へ向かうほど幅が狭くなっており、持ち送りの構造が確認できます。
家形石棺の蓋には、赤坂天王山古墳でも見学した縄掛け突起が見られますね。
開口部を背にして振り返ります。
集落の村道に面した、実に長閑な場所に都塚古墳はあります。
側壁には何やら浮き出た文様が見られます。
気になるラインですね。
バラスが敷き詰められた玄室内。
このちょっと蓋をずらしている感じがイイですよね。発掘時にもこのような状態で見つかったのでしょうか。それとも、展示のために意図的にずらされたのでしょうか。
都塚古墳の復元イメージ図。
見事なピラミッドを形成しています。一口に方墳と言っても、実にオリジナリティ溢れる墳丘の形状ですね。この階段状遺構は発見当時、マスコミ各社にもセンセーショナルに取り上げられたことで有名です。国内でも類例を見ない形だけに、高句麗の積石塚(つみいしづか)の影響を受けているのではないかと言われます。
開口部から少し上手へ上がった所。
アスファルト道の脇から墳丘へと上がる道が付けられていました。案内板の左手からも上がって行くことができますが、こちらの方が傾斜が緩やかです。
都塚古墳の墳頂です。
高さ4.7mの方墳ですから、あっという間に墳丘の頂上に上がることができます。当たり前と言えば当たり前なのですが、墳丘の上には何もありません。ただ、四方には視界が開けていて飛鳥の風景を楽しむことができます。
石舞台方面を望みます。
アクセスの途中で渡った都橋が見えていますね。
こちらはくつな石へと向かう道を追います。
一面に広がる田園風景の中にぽつりぽつりと民家が建っています。
墳丘上から石室の入口付近を見下ろします。
この角度からも見学が可能です。足元を踏み外して落っこちないように注意しましょう。
さすがに、ちょっとした高さですね。
ご存知のように石舞台古墳は封土が失われています。ただただ、石室が剥き出しになっている状態なのですが、都塚古墳は墳丘の上にも上がれるのです。やっぱりお得なような気が致します。
墳丘からの帰路は、急斜面の方の道を選びます。
足を滑らせないように注意しながら、ゆっくりと下って行きます。
3か所で墳丘裾が確認された都塚古墳。
南に延びる尾根先端の基盤層を削り、盛り土をして墳丘が築かれていたと言います。
祝戸方面へ足を伸ばすと、そこには不思議なマラ石が鎮座していました。
男根をリアルに模した石造物で、飛鳥坐神社の陰陽石を思わせます。亀頭の先端も実に写実的に彫られており、思わず足を止めてしまいます。
同じ飛鳥の古墳でも、数少ない巨石で構築された岩屋山古墳の石室とは趣を異にします。
端的に言えばすっきりしていないのですが、それだけ原始的な力強さを感じさせます。よりプリミティブで、より古代を味わえる石室と表現したらいいでしょうか。
墳丘最下段の斜面には川原石が敷かれ、テラス面は幅およそ6mの広さがありました。
墳丘の東側では、段状の石積みが4段分発掘され、各段の高さは30cmから60cmぐらいだったと言います。ピラミッド状の遺構が見つかった際、現地説明会にも足を運びたかったのですが、残念ながら所要で出向けませんでした。今はもう埋め戻されていますので、生で見ることはできません。唯一の救いは横穴式石室の中と、そこに安置される家形石棺を見学できることですね。
都塚古墳周辺には駐車場がありません。
石舞台古墳の駐車場に車を停めて、徒歩でアクセスされることをおすすめします。
<明日香村の古墳ガイド>