大阪府南河内郡太子町山田の仏陀寺(ぶっだじ)を訪れました。
浄土真宗本願寺派のお寺です。
親鸞聖人も訪れたようで、境内には親鸞聖人の腰掛石があります。そして何より、仏陀寺の見所と言えば蘇我馬子の孫・蘇我倉山田石川麻呂の墓でしょう。
仏陀寺本堂。
山門を入ると、右手にありました。
仏陀寺の本尊は、手のひらサイズの阿弥陀如来立像です。蓮坐にお立ちになられ、施無畏印と与願印を結んでおられます。親鸞聖人が自ら彫ったという曰く付きの仏像のようです。
大化の改新の舞台に居合わせた人物!横口式石槨の被葬者か
当日私は、推古天皇陵前に車を停め、徒歩で北へ向かいました。
その道中、葉室歴史公園へ続く丁字路に出ます。左へ折れると葉室歴史公園ですが、そのまま直進して右へ進路を取ります。やがて右手に仏陀寺が見えてきました。
山門入って左手に古墳がありました。
築地塀の向こう側に小さな叢が見えていますが、あの辺りが蘇我倉山田石川麻呂の墓です。被葬者が明らかになったわけではないので、「仏陀寺古墳」と呼ばれています。
仏陀寺山門。
山号を「盛光(じょうこう)山」と言います。浄土真宗の開祖・親鸞が叡福寺(聖徳太子御廟)を参拝した際、仏陀寺に立ち寄ったそうです。そして、仏陀寺住職の秦盛光(はたのじょうこう)を弟子にしたと伝わります。
山門に掲げられる「盛光山佛陀寺」。
どうやら現在のご住職も“秦さん”とおっしゃるようですね。
史跡仏陀寺古墳の石標。
墳丘の名残なのか、標の背後は少しこんもりしていました。
左手に回り込むと、棺の表面が露出しています!
凝灰岩製の横口式石槨のようです。
太子・和みの広場に移設されていた松井塚古墳の石棺も横口式石槨に収められていたものです。渡来系氏族の墓に多い横口式石槨。お墓のスタイルからも、蘇我倉山田石川麻呂説が浮上しているのでしょう。
素晴らしい景色です!
おそらく大阪の梅田エリアを遠望しているのでしょう。ここは高層ビル群が望める場所です。
仏陀寺前には駐車場があって、その駐車場端から北西方向を見渡しています。少し離れて左の方に見えている、あの “一番高いビル” はあべのハルカスに違いありません。古墳は高台に築かれることが多いものですが、仏陀寺古墳も例外ではありません。
仏陀寺は傾斜のある場所に建ちます。
境内を囲う石垣を覆うのは蔦の葉でしょうか。
駐車場前に何やら石碑が建っています。
「天誅組松田重助先生位牌所」と刻みます。松田重助(じゅうすけ)は尊王攘夷運動に奔走した志士です。松田重助の位牌がこの場所にあったことから、仏陀寺前に顕彰されているようです。松田重助は当時、富田林に住んでいました。この地には円明寺というお寺があり、寺の秦正順の娘・繁野を松田が娶っていたため、その位牌が移されたようです。
蘇我倉山田石川麻呂の墓を示す石標。
仏陀寺周辺では、科長神社の夏祭りに向けた準備が進んでいました。
毎年7月末に催される祭礼で、神輿と地車が賑やかに繰り出します。だんじりは5つの町会からそれぞれ1台ずつ出て、威勢のいいお囃子に合わせて若者たちが勇壮に曳き回します。
盛光山の扁額。
右手には、大きな太鼓が吊り下げられていました。
仏陀寺古墳の出入口。
白壁の塀に囲われた古墳というのも珍しいですね。
仏陀寺古墳の案内板。
太子町が管理する大阪府指定史跡です。
太子町山田の仏陀寺の境内の東に位置し、指定当時には、南北9.28m、東西6.4m、高さ0.9mの墳丘が残されていました。
墳丘中央部には、凝灰岩でつくられた横口式石槨があり、一部が地表面に露出しています。この石棺は、一石を刳り抜いた構造で、南向きの短辺部に四角形の横口を設け、凝灰岩の石で閉塞されています。石棺は、外側で長さ・・・・・・・・・・・・・・
大正時代に周囲を整地した際には、石棺の周囲に塼(せん)と呼ばれる・・・の焼き物を積み上げて、棺を蓋うように構築されていたことがわかりました。
出土した塼は二点が保管されており、ともに須恵質(窯で高温で焼成した硬質な焼物)で、大きさは縦32cm、横24cm、厚さは約6cmを測ります。表面には、いずれも両面に成形の際に工具で叩いた同心円文の痕跡があります。一方の塼は片面の中央にヘラで十字を線刻し、他方は片面に粗い布目が残っており、細部には違いがあります。
本古墳は、出土した塼や石棺の形式から7世紀に築かれたと想定されています。
古くより本古墳の被葬者を蘇我倉山田石川麻呂と伝えますが、真偽のほどは明らかではありません。
夏場に訪れたためか、墳丘には草木が生い茂っていました。
本堂に振り返ります。
ちょうどご住職が、古墳周りの草刈り作業に取り掛かられる直前でした。仏陀寺古墳にまつわる色んな話を聞かせて頂きました。
蘇我氏が奈良の飛鳥に定着する前、二上山をはさんだ反対側の太子町界隈に住んでいたことや、謀反の罪を着せられて自害した蘇我倉山田石川麻呂をこの地まで運んだという逸話まで。とても興味深かったです。
冬場に訪れれば、もう少し露呈した石棺も見やすいのかもしれません。
仏陀寺前の駐車場。
ちなみにこの駐車場は仏陀寺の駐車場ではないようですので、アクセスの際はご注意ください。
日本史の大転換点となった乙巳の変。
蘇我倉山田石川麻呂は皇極天皇の御前で上奏文を読み上げる役割でした。斬りかかり役の二人が躊躇している間、蘇我倉山田石川麻呂の全身は冷や汗で濡れたと伝わります。業を煮やした中大兄皇子が自らの剣で入鹿に斬りかかり、二人もその勢いに乗ったということです。
大化の改新に居合わせた蘇我倉山田石川麻呂の墓。飛鳥ではなく、大阪府の太子町にあるとすれば「里帰り」を意味するのかもしれません。どうぞ安らかにお眠り下さい・・・。