松井塚古墳石棺!横口式石槨に葬られた渡来系氏族

叡福寺参詣で訪れた大阪府太子町。

叡福寺境内の東側に「太子・和みの広場」が整備され、無料駐車場もありました。広場を歩いていると、隅の方に石棺が置かれています。一目で移設されたものと分かりましたが、「王陵の谷」と呼ばれる太子町だけに自然と足が向きました。

松井塚古墳石棺

松井塚古墳の石棺。

横口式石槨の古墳のようです。

昭和33年に、太子町山田の民家敷地内で出土しました。「近つ飛鳥」と呼ばれる太子町エリアは、蘇我氏一族が飛鳥(奈良)の地を踏む前に拠点としていたことで知られます。

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二上山の凝灰岩製石棺を太子・和みの広場で見学

当日私は、奈良県葛城市内から竹内峠を越え、大阪府内に入りました。

竹内街道沿いに国道166号を下りきると、右手に道の駅『近つ飛鳥の里・太子』が見えてきます。道の駅を通り過ぎ、「交番前」の交差点を左折します。そのまま街路樹の道を直進し、「太子町東」を右に曲がって叡福寺を目指しました。

松井塚古墳石棺

重量感のある石棺ですね。

横口式石槨は、奈良県内でも渡来系氏族によく見られます。パッと思いつくところでは、高取町の寺崎白壁塚古墳などがあります。今でこそ行政区分は高取町ですが、ほぼ飛鳥エリアと言ってもいい場所です。

太子・和みの広場

太子・和みの広場。

屋根付きのステージも設けられていました。

広場の向こうに見えている建物は、叡福寺の伽藍です。

松井塚古墳石棺の解説

大阪府指定文化財の松井塚古墳石棺。

松井塚古墳は昭和33年、太子町山田の民家の敷地で井戸を掘る作業中に発見されました。南300mには推古天皇陵が位置することから、発見当時は「推古天皇の陪塚(大きな古墳の周囲にある従属的な立場の小さな古墳)ではないか?」とマスコミを賑わせました。

二上山の凝灰岩で造られたこの石棺の周囲には石室が築かれ、石棺と石室の隙間には小石を詰めた、横口式石槨と呼ばれる構造をもった古墳でしたが、その後、石棺だけが移設されています。石室は当時使われていた唐尺(からじゃく)というものさしを使用して築かれたと考えられており、その規模が大化の薄葬令の王以上の貴族の墓制に合致するものとして注目されています。また、このような横口式石槨を採用した古墳は、磯長谷(しながだに)やその周辺に数多く認められ、渡来系氏族との関係も指摘されています。

松井塚古墳石棺の中

石棺と石室の隙間に詰められていた小石でしょうか。

推古天皇陵の陪塚、なるほどそうなのかもしれません。被葬者が不明な古墳は数多く、これといった決め手に欠けるのが現状です。

実はこの後、太子町山田にある浄土真宗本願寺派の仏陀寺を訪れました。境内の奥に「仏陀寺古墳」という横口式石槨の古墳があり、石棺の蓋石が露出していました。

お寺の方によると、蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝わるようです。逆賊の汚名を着せられ自害した人物ですが、飛鳥の地に葬ったのでは掘り返される危惧もあり、山を越えて太子町山田の地に葬ったのではないかとのことでした。蘇我一族にとっては、かつての故郷ですからね。ふる里で静かに眠っているとすれば、それだけで供養になります。

聖徳太子御廟

叡福寺の聖徳太子御廟。

聖徳太子のお墓も太子町にあります。墳丘の周りを石柱がびっしりと囲っていました。

松井塚古墳石棺

蓋石の欠けた部分は盗掘の跡でしょうか。

松井塚古墳石棺の並びには、尼ヶ谷古墳(あまんたに)や聖徳太子墓の模型も展示されていました。

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