甘樫丘のすぐ南方に菖蒲池古墳はあります。
舒明天皇の初葬地かと話題になった小山田遺跡のすぐ近くということもあり、菖蒲池古墳に足を運ぶ考古学ファンも増えているのではないでしょうか。
菖蒲池古墳。
所在地は橿原市菖蒲町ですが、明日香村とすぐ隣り合わせの場所に位置します。菖蒲池古墳は墳丘の封土が流出しており、石棺の天井石が露出した状態になっています。そのため、元の形や規模は不明とされます。古墳の解説書に目を通してみると、一辺約30メートルの方墳と案内されていました。全長約6メートル以上と推定される横穴式石室内部は、石と石の間などに大量の漆喰が塗られています。凝灰岩をくり抜いた棟飾りを持つ二基の家形石棺が南北に並べられています。
菖蒲池古墳へアクセス
お寺や神社と違って、古墳への行き方は比較的分かりにくいものです。
人目に付かない所にひっそりと静まり返っているのが古墳です。普段から飛鳥方面を車で移動することの多い私にとっても、菖蒲池古墳周辺は今までに一度も訪れたことのない未知の場所でした。
史跡菖蒲池古墳の石標が立っています。
正面の覆い屋根の中が菖蒲池古墳です。
奈良県道155号線(多武峰見瀬線)から少し北へ入って行くと、左手に菖蒲池古墳があります。
155号線は橘寺や川原寺跡の前を通っている道路です。橘寺前から西へ向かうと、亀石のある交差点へと出ます。コンビニのセブンイレブンが最近出店した場所と言えば分かりやすいかもしれません。そのまま直進すると、左手に野口駐車場やレンタサイクルの亀石営業所が見えて参ります。そこも通り過ぎると、しばらくすると菖蒲池古墳の案内板が見えてきます。右手に少し登って行くと、目的地の菖蒲池古墳へと辿り着きます。
菖蒲池古墳へ辿り着く少し手前に、天理教白橿分教会が左手に見えて参ります。
天理教の建物の裏手が菖蒲池古墳です。
このステップを上がって行くようです。
道の反対側には、謎の巨大掘割が発見された小山田遺跡があります。上空をヘリコプターが飛び交う中、小山田遺跡の現地説明会に足を運んだ記憶が蘇ります。
菖蒲池古墳の道案内。
菖蒲池古墳の被葬者は未だに不明ですが、小山田遺跡の発掘に伴い、ひょっとすると蘇我入鹿の墓ではないかとする説も浮上しているようです。隣接する小山田遺跡が入鹿の父・蘇我蝦夷の墓で、菖蒲池古墳を蘇我入鹿の墓とする考え方です。
藤原京朱雀大路の延長戦上に位置する菖蒲池古墳
菖蒲池古墳には謎があります。
「聖なるライン」と呼ばれる藤原京朱雀大路の延長線上に位置しているという点です。朱雀大路を真っ直ぐ南に延長したライン上には天武持統天皇陵、天武天皇の孫である文武天皇陵、キトラ古墳などの有力者の古墳が重なります。箸墓古墳の謎を深める「太陽の道」にも似て、何か意図的なものを感じます。
いよいよ菖蒲池古墳らしき姿が見えて参りました。
木々が生い茂っているのかと思いきや、視界も開けていて歩きやすい場所です。
二重の覆い屋根に囲われています。
聖なるラインに着目したのは、元橿原考古学研究所所長の岸俊男氏だと言われます。ついでに付け足すなら、飛鳥美人像で知られる高松塚古墳なども同じライン上に位置しています。益々その謎は深まるばかりですね。
菖蒲池古墳の説明版。
冒頭に「朱雀大路の延長線上」と案内されています。
むき出しになった天井石。
低い位置にある石棺を覗き込みます。手前に見えている石棺の向こう側に、もう一つの石棺が横たわります。菖蒲池古墳が合葬墓と言われる所以ですね。
周囲はこんな感じです。
雨水対策で土嚢が積まれているのでしょうか。
こんなに至近距離で終末期古墳を拝めるとは思ってもみませんでした。
今はもう石棺に触れることは出来ませんが、昔は触れることが出来たようです。石棺には魔除けの朱が塗られており、触った指にその朱色が付いたと伝えられます。
藤原京の中央を南北に走るメインストリート。
東西南北に碁盤の目のように道が走り、町が区画されていた藤原京。条坊制が敷かれた計画都市の中で、最も主要な道路とされた朱雀大路。その道幅はおよそ24メートルにも及び、両側には側溝が設けられていたと言われます。
その延長線上に築かれた菖蒲池古墳。
菖蒲池古墳見学を終えて、来た道を引き返します。道路向こうの白いフェンスの背後が小山田遺跡です。このまま右手へ下って行けば、県道の多武峰見瀬線に出ます。左手へさらに登って行けば何があるのだろう?
明日香村立屋内ゲートボール場がありました。
誰もプレーなさっていませんでしたが、休日にはご高齢の方々の憩いの場となっているようです。