国宝の薬師如来と十二神将で知られる新薬師寺。
霊験あらたかな新薬師寺を久しぶりに訪れて参りました。
新薬師寺本堂と拝観パンフレット。
ご本尊の周りを十二神将立像が守っています。
新薬師寺は秋に開花する萩の名所でもあります。見頃はやはり9月以降になりますので、7月下旬の境内にはわずかにサルスベリの花が咲いているのみでした。
七仏薬師を表す薬師如来坐像
新薬師寺の御本尊は、見開いた大きな目が実に印象的です。
平安時代の一木造で、十二神将や本堂と共に国宝に指定されています。巨樹の枝葉をイメージさせる光背には六体の薬師仏が配されており、本体と合わせ七仏薬師が表現されています。
新薬師寺本堂。
南門を入って真正面に構えます。
奈良時代の国宝で、その建築様式は入母屋造の本瓦葺。宝亀11年(780)の落雷による火災を免れ、境内で唯一残ったラッキーな建物でもあります。40本の円柱によって支えられており、天井が張られてないことでも知られます。本堂内陣からは建物の骨組をじかに見ることができ、新薬師寺拝観の一つの見所にもなっています。
新薬師寺の御本尊・薬師如来坐像。
蓮の上ではなく、安定感のある裳懸座に坐しています。
榧(かや)材による一木造・素木(しらき)仕上げの仏像です。体の中心部を一本の木材から彫り出す一木造ですが、通常は両脚部には横木を寄せます。しかしながら、新薬師寺の薬師如来坐像には横木が寄せられていません。両脚部に別材を寄せていることに変わりはないのですが、横木ではなく縦木を複数並べて彫り出しています。あたかも全身が、一本の太い木材から彫り出されているかのように見せる手法が採られているのです。
彫刻面の風化も少なく、色艶の良さが際立つ仏像です。
木の魂とでも言うか、底知れぬエネルギーが薬師如来坐像には宿ります。光背の唐草文様にも、ダイナミックな動きが感じられます。一本の太い柱を据え、その周りを十二神将が取り囲む構図からも、この仏像の重要性がうかがえるような気が致します。
ビデオ上映中の庫裏。
本堂左手へ抜けると、鄙びた風情の庫裏がありました。庫裏内では、新薬師寺のビデオが上映されていました。暖簾のデザインは、どうやら新薬師寺本堂のようです。
ご本尊の右手は恐れを取り去る施無畏印の印相です。
左手には薬壷を持ち、薬師如来ならではの出で立ちで参拝客と向き合います。
歴史をさかのぼること天平17年(745)、時の聖武天皇の病気平癒を祈り、各地の名山や清らかな場所に於いて薬師悔過(やくしけか)の法が行われました。併せて高さ六尺三寸の薬師像七体を造立することが命じられます。奈良では春日山がその場所に選ばれました。それが香山堂(こうぜんどう)であり、後に七仏薬師如来像を本尊とする香薬寺(こうやくじ)、すなわち新薬師寺へと発展していくことになります。
かつての新薬師寺金堂は、東大寺大仏殿にも匹敵するほどの規模を誇っていたと言います。
平成20年(2008)になって、近くの奈良教育大学敷地内の発掘調査により、かつての金堂跡をはじめとする新薬師寺の遺構が発見されたのです。創建当初の金堂の巨大さが明らかになり、その基壇は東西約68m、南北約28mで、その上に幅約60mの金堂が建っていたことが分かりました。
平城宮の大極殿よりも大きな金堂。
東大寺大仏殿に次ぐ規模の金堂を持つ大寺院であったことが明らかになったのです。
薬師悔過の様子が拝観パンフレットにも描かれていました。
僧侶たちが精進潔斎してお籠りし、厳かに薬師悔過が勤修されています。身を清めて薬師如来の御前で罪を懺悔し、心の穢れを取り除いて福を招きます。聖武天皇のお后であった光明皇后によって創建された新薬師寺ですが、新薬師寺の歴史を省みるとき、七仏薬師如来像と薬師悔過の法を忘れてはなりませんね。
それにしても、なぜこんなに大きなお寺が建設されたのでしょうか。
創建時の新薬師寺の面積は四町四方に及び、巨大な金堂の左右には東塔と西塔が建っていました。講堂、食堂、僧坊や僧院、経蔵など七堂伽藍を擁した大寺院でした。
新薬師寺の建立に携わったのは造東大寺司(ぞうとうだいじし)という官庁でした。
東大寺建設の際、人手不足により臨時に設けられた官庁です。東大寺建設を無事に終え、解散することなく他の寺の建設も請け負うようになったと言われます。そうこうする内に、平城京建設を担ってきた既存の建設官庁である木工寮(むくりょう)との間に縄張り争いが生じました。
縄張り争いがエスカレートした結果、造東大寺司は少しでも大きな寺を築こうと、新薬師寺の拡大建築に着手しました。
七仏薬師は通常、一尊の光背に六体の化仏を加えて七仏を表すのが習わしでした。今の新薬師寺の本尊・薬師如来坐像のようなスタイルですね。しかしながら、創建当初の新薬師寺金堂には、実際に薬師仏が七体並んでいたと伝えられます。
巨大な金堂に居並ぶ、正真正銘の七仏薬師のお姿は圧巻の一言に尽きたものと思われます。
新薬師寺の石仏群・地蔵堂・鐘楼
仏像の宝庫ということで、本堂にばかり目が行きがちな新薬師寺。
新薬師寺の境内にも色々な見所がありますので、ここにご案内しておきます。
実忠和尚御歯塔。
南門を入ってすぐ左手に建っている十三重石塔です。
十三重石塔とは言っても、現在は五重石塔に様変わりしています。実忠和尚の歯塚と伝承される塔で、建立当初から残っているのは下の二段のみとされます。上の三段は後に補修されているそうです。実忠和尚といえば、東大寺二月堂の修二会を始めた人物としても知られます。
人の歯はいつまでも残るのですね(笑)
京都豊国神社の宝物庫で、豊臣秀吉の歯が展示されていたことを思い出します。歯塚の左手奥には石仏群が見えています。
新薬師寺の石仏群。
小屋の中にたくさんの石仏が佇んでいます。
地蔵菩薩三体、阿弥陀如来一体、薬師如来一体、さらには二面の阿弥陀名号石が並びます。
左から二番目に立つ、最も小さい地蔵菩薩様で、その名を「十王菩薩立像」と言います。
光背に注目してみましょう。
光背上部には地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道の姿が刻まれています。いわゆる六道輪廻の世界が地蔵石仏の光背に彫られているではありませんか。さらに脇侍には冥界を司る十王が配されます。小さな石仏ではありますが、地蔵信仰の粋を見るような気が致します。
境内の西側にも石仏群が見られました。
新薬師寺の塀の外に見えている建物は、南都鏡神社の本殿でしょうか。
石仏群と石仏群の間、境内南西隅に稲荷社が祀られていました。
ここはちょうど裏鬼門に当たる場所です。
地蔵堂。
歯塚の右側に立つお堂で、鎌倉時代の重要文化財に指定されています。
方一間の小さな仏堂ですが、優美な蟇股が印象に残ります。
地蔵堂内には三体の仏像が安置されています。中央に十一面観音菩薩立像(鎌倉時代)、右側に薬師如来立像(室町時代)、左側には地蔵菩薩立像(南北朝時代)が収蔵されています。十一面観音が安置されていることから、観音堂と呼ばれることもあるようです。
竜王社。
南門を入って右手にあります。
竜王社の池の畔にサルスベリの花が開花していました。
奈良公園の百日紅(さるすべり)は夏に咲く花として有名ですが、ここ新薬師寺の境内にも見られました。開花期間が長いことから百日紅(サルスベリ)の名前があります。
竜王社の手前、南門を入ってすぐ右手にある鐘楼。
鎌倉時代の重要文化財です。
白漆喰塗りの袴腰(はかまごし)が印象的な建築物です。下層の末広がりになっている白い部分が袴腰ですが、全体的にどっしりとした安定感を生み出しています。
鐘楼の中の梵鐘は奈良時代のもので、同じく重要文化財に指定されています。現在はお寺の行事や、大晦日の除夜の鐘に撞かれるようです。元は元興寺にあった梵鐘と伝えられ、鎌倉時代に元興寺の釣鐘堂が焼失した際に新薬師寺へ移されたそうです。
新薬師寺の梵鐘は、「日本霊異記」にある道場法師の鬼退治で名高い釣鐘としても知られます。
月甫の歌碑「神将立つ内陣涼し薬巌窟」。
鐘楼の裏手に参拝客用のトイレがあり、塀伝いに回り込むと、鐘楼の右手に月甫の歌碑がありました。神将立つ、という歌い出しがストレートに脳裏に刻まれます。
会津八一の歌碑「ちかづきて あふぎみれども みほとけの みそなはすとも あらぬさびしさ」。
香薬師堂へ通じる入口の近くに、会津八一の歌碑が建っていました。
悲しいかな、現在も行方不明になったままの香薬師を詠んだ歌として知られます。その歌の意味は、「近づいて仰ぎみても、仏様は自分を見ておられないようで寂しい」といった感じです。
今回、私が拝観した際には、御本尊右手前の厨子の中に香薬師の複製が祀られていました。飛鳥時代の銅造仏像で、子供のお姿をした薬師如来立像です。大正時代、信者によって本堂西南に香薬師堂が建立されました。昭和に入ってから寺外に持ち出され、今も行方不明中の仏像として知られます。
奈良時代の国宝塑像・十二神将
ご本尊を取り巻く十二神将立像は、民間の工房で造られたものではないかと言われます。
これだけ立派な仏像であれば、誰しも官営の造仏所を思い浮かべるものですが、「資金力の乏しさ故の塑像」という点で納得がいきます。新薬師寺の十二神将は金銅仏でもなければ乾漆像でもありません。簡易な造りの塑像であることを確認しておきます。
新薬師寺へと続く高畑町エリアには、閑静な佇まいの家々が並び建ちます。
志賀直哉旧居にも程近く、文化の香り高い場所として知られます。
新薬師寺の東門(重要文化財)。
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて作られており、新薬師寺正面の南門よりも古い時代の門です。本柱の上が二つに割れて、板蟇股を挟む珍しい様式です。
新薬師寺南門(鎌倉時代の重要文化財)。
鎌倉時代後期の作で、切妻造の四脚門です。この南門の右手に拝観受付と駐車場があり、600円の拝観料を納めて境内へと入ります。
奈良時代の入母屋建築の粋を見せる本堂。
萩の葉っぱを手前に撮影します。
拝観パンフレットの十二神将立像。
右から伐折羅(バザラ)、頞儞羅(アニラ)、波夷羅(ハイラ)大将ですね。
薬師如来を悪魔から守り、勇敢に闘った善神たち。その瞳にはガラス玉が嵌め込まれ、民間製作とはいえ、その技術水準の高さがうかがえます。
本堂内の円形土壇上に、それぞれ外向きに配置される十二神将。十二神将は薬叉(やくしゃ)大将、あるいは夜叉(やしゃ)大将とも呼ばれ、薬師如来の名を唱える者を苦難から守ります。
憤怒の表情で下方を睨み付けます。
十二神将の各々の視線を見れば分かりますが、皆一様に下を向いています。持ち物もポーズもそれぞれに違いますが、ただ一点その視線だけは下方を向いています。バラバラなようでいて、不思議と統一感が感じられるのはその視線の方向ゆえでしょうか。
庫裏の門前に、ビデオ放映中の案内板がありました。
以前に新薬師寺を訪れた時は、本堂内でビデオ上映されていた記憶があります。薬師如来坐像の向かって右手に椅子が並べられ、十二神将を右手に感じながらビデオ鑑賞した覚えがあります。さすがに本堂内は神聖な場所ということで、こちらに移動してきたのかもしれませんね。
ビデオ上映ですから、当然のことながら音も漏れます。静かに仏像鑑賞を楽しみたい方にとっては迷惑なサービスだったのかもしれません。
ビデオで見ても、やっぱり迫力ありますね。
新薬師寺の十二神将は、近世のある時期に、近くの岩淵寺(いわぶちでら)から移されてきました。従って現在の十二神将の配列方法は、本来の形ではありません。十二神将の名前も、お寺によって呼び方が違ったりします。あるいはその並び方も様々で混乱してしまうのですが、十二体揃って十二神将であることに違いはありません。
インド神話の世界では、森林に住む精霊のことを夜叉と言います。夜叉大将とも呼ばれる十二神将は、森からやって来たのでしょうか。日本古来の神道においても、森は「守(もり)」に通じています。
新薬師寺の庫裏。
日本最古の十二神将は、造られた当初は極彩色でした。群青や緑、青、朱色に彩られた眩いばかりの十二神将。それを見た当時の人々の驚きの表情が蘇ります。
ちょうど画面が切り替わるシーンを切り取ることができました(笑)
怒りの表情の向こう側に、極彩色に彩られた十二神将の脚が映っています。テレビ画面の上には、新薬師寺の山号「日輪山」の額縁が掛けられていました。
十二神将は12の方角に分かれ、それぞれが7千の兵を率いていると言います。つまり、総勢8万4千の大軍団を組織していることになります。12年周期の1年交代で総大将を決め、万全の体制で薬師如来を護衛し続けている十二神将。実に頼もしい存在ですね。
十二神将にはそれぞれに干支が配されており、その守り神としても信奉を集めています。本堂入口を入ると、十二神将がずらりと並んでいるわけですが、順に十二神将名とそれに呼応する干支をご案内しておきます。
因達羅(インダラ;巳)、安底羅(アンテラ;申)、迷企羅(メイキラ;酉)、珊底羅(サンテラ;午)、真達羅(シンダラ;寅)、招杜羅(ショウトラ;丑)、宮毘羅(クビラ;亥)、摩虎羅(マコラ;卯)、毘羯羅(ビギャラ;子)、波夷羅(ハイラ;辰)、頞儞羅(アニラ;未)、伐折羅(バザラ;戌)と続きます。
自分の干支はどの十二神将に相当するのか、一度確認しておきましょう。
庫裏と廊下でつながった香薬師堂。
香薬師堂には、秘仏としておたま地蔵尊が安置されています。
昭和59年(1984)のこと、本堂安置の景清地蔵尊を東京芸術大学で解体していたところ、胎内からもう一体の仏像が発見されました。高さ1.85mの等身大の裸像で、男性のシンボルが彫られていたそうです。胎内にあった700年前の願文から、尊遍僧正が祈願して造像したことが分かっています。
鎌倉時代の裸形像として、その名を知られる秘仏です。
境内のお手洗い案内。
背後に見えているのは、表門の南門です。
本堂の右手、東の方角に設えられたステンドグラス。
薬師如来は東方浄瑠璃世界の仏様です。
西を象徴する阿弥陀如来に対し、東をシンボライズする薬師如来。来世の救いが阿弥陀如来なら、現世の救いは薬師如来が担当します。このステンドグラスから本堂内に光が差し込むのでしょうか、だとすればその幻想的な光景を見てみたいものです。
拝観パンフレットに聖武天皇尊影・光明皇后尊影が描かれていました。
元々体が弱かったと伝えられる聖武天皇。夫の眼病平癒を祈願して創建された新薬師寺の歴史を想います。新薬師寺の「新」は、霊験あらたかな「あらたか」を意味しています。
落雷による火災や嵐で一時は廃れてしまいましたが、鎌倉時代になって解脱上人や明恵上人の手により、地蔵堂、南門、東門などの建物が造られて現在に至ります。
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