奈良県桜井市の史跡・纒向遺跡。
邪馬台国の有力候補地として注目を集めるエリアですが、近頃その大型建物跡に掘立柱が復元されました。纒向遺跡の辻地区。この場所には、卑弥呼の宮殿が建っていたのではないかと言われています。JR桜井線の巻向駅すぐ西側の広場で、以前まではただ何も無い所でした。
柱が復元された纒向遺跡の辻地区。
大型建物を含む3棟の跡に、杉の柱が計65本立てられました。標柱や陶板の解説も設けられ、古代に繁栄した纒向遺跡の姿がより分かりやすくなりました。現時点での問題点は駐車場が整備されていないことでしょうか。駅前の立地で、民家も多いことがその理由でしょう。
年代測定完了、遺跡出土の桃の種
先ごろ、纒向遺跡から出土した桃の種の年代測定が行われました。
放射性炭素年代測定により、西暦135~230年と推定されました。桃の種は食用ではなく、呪術に使われていたものとされます。遺跡の中枢部である大型建物跡(3世紀前半)の近くで出土しており、シャーマンであった卑弥呼も使用していたのではないでしょうか。今回の測定により、邪馬台国の居館跡との説がより有力となりました。
史跡纒向遺跡。
立派な標柱も建てられました。
西から東の方向を見る格好です。時折、JRの電車が通過するのも趣があります。
今でも桃の種は、桜井市立埋蔵文化財センターへ行けば見学することができます。古来より、桃には霊的なパワーが宿っていたようです。イザナギが黄泉の国から逃げ帰る際、追手に桃を投げ付けた話は有名です。『古事記』にも語られる桃の霊力ですが、そういえば京都の晴明神社にも桃の像があったことを思い出します。
卑弥呼の生存期と同じ年代の桃の種。
さらなる今後の研究が待たれますが、邪馬台国畿内説が強まったことは間違いないでしょう。
JR万葉まほろば線の巻向駅。
ここから少し北寄りに柱が復元されています。
纒向遺跡辻地区へのアクセスですが、最寄駅はJR巻向駅です。
少し回り込む必要はありますが、駅から徒歩5分もあれば辿り着きます。駐車場が無いため、近くに路駐することになりますが、今回私は国道169号線沿いにあるお店の駐車場をお借りしました。
箸中にある『日本一たい焼』さんです。
纒向遺跡辻地区へのアクセスロード
日本一たい焼の桜井店は箸墓古墳のすぐ傍にあります。
箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかとされる巨大前方後円墳で、この時代の古墳の盟主墳とも言える存在です。
日本一たい焼の天然黒餡鯛焼き!
お値段は175円でした。
少々高めですが、一匹一匹丁寧に焼かれる鯛焼きはオススメです。
店内の顔出しパネル。
ボードに「天然」の文字が見えますね。
鯛焼きにも天然モノと養殖モノがあるようです(笑)
店内には『およげ!たいやきくん』の歌が流れていました。
子門真人さんの懐メロですね(^^♪
天然モノの鯛焼きを頬張りながら、「お腹のあんこが重いけど」のフレーズに妙に納得します。食べ終わった後、お店の方に纒向遺跡へ行く旨を伝え、駐車場利用の許可を頂きました。
日本一たい焼を出発し、一路辻地区を目指します。
途上にある纒向遺跡の公衆トイレ。
少しずつではありますが、周辺の整備も進んでいます。
纒向石塚古墳の他にも、遺跡群を形成する勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳が案内されていました。
向こうに見えているのが三輪山で、その手前に復元された柱が確認出来ます。
纏向遺跡の中枢部に辿り着きました!
手前の角が北西隅に当り、対角線上に三輪山を望みます。
3棟の建物跡を解説する陶板
柱の復元と共に、今回新たにお目見えしたのが陶板の解説パネルです。
2009年度に発掘された時の模様も含め、より詳細に纏向遺跡を知ることが出来るようになりました。
東から西の方を望みます。
柱の向こうに緑の杜が見えていますが、ちょうどあの辺りは天照御魂神社の神域です。
太陽崇拝が色濃く感じられる神社で、卑弥呼ともあながち無関係ではないでしょう。卑弥呼の当て字として、「日巫女」や「日見子」はよく知られるところです。天照御魂神社の境内はかつての ”日知りの地” であり、卑弥呼の宮殿跡と容易に結び付きます。
建物Dの解説。
3棟の建物跡の内、一番東側に位置します。
線路寄りに復元された場所で、ここだけが一段高く盛られていました。
建物の西側が4世紀の溝によって壊されており、東西2間×南北4間分しか見つかっていませんが、本来は東西も4間であったと考えています。
復元による建物は東西約12.4m×南北約19.2m、床面積約238㎡と大型で、建物方位はB.Cと同じく真北に対して4~5度、西へと振れていました。
方形や長方形の柱穴には直径約32cmの柱が推定され、約4.8mと広い南北方向の柱間には円形の柱穴があり、ここには床を支える直径15cmの束柱が立てられていたようです。なお、建物の下には、柱を安定させるための基壇状の盛土の存在が推定されています。
西から建物Dを見ます。
土俵のような盛土が見られますね。
建物Cの解説。
3棟の内、真ん中にあった陶板パネルです。
建物の方位に関しては、B・Dと同じく真北に対して4~5度、西へ振れていたようです。
柱穴は楕円形が多かったようで、直径70~80cmと大きめです。使用された柱は建物Bと同じ直径約20cmのものと推測されます。
復元柱の北西方向には、県営纒向団地が控えます。
近くに民家も隣接しているのが分かりますね。
建物Bの解説。
入口から一番近い、西側の建物跡です。
東西2間(約4.8m)×南北3間(約5.2m)、床面積約25㎡の建物跡で、建物の方位はC.Dと同じく真北に対して4~5度、西へと振れています。
発掘調査により確認された柱穴は、円形のもので、大きさは直径50~60cmでした。柱穴に残った柱の痕跡により、建物に使用された柱は直径20cmであったと推定されます。
なお、建物西辺の南から2つめの柱穴からは、建物を解体し、柱を抜き取ったときに埋められたと考えられる小型器台が1点出土しており、建物が取り壊された時期を知る手掛かりとなっています。
古代ロマンの象徴でもある纏向遺跡。
少しずつそのベールを脱いでいくわけですが、永遠に謎であってほしいと願う部分もあります。不思議なものですね、人間の心理というのは(笑) 邪馬台国論争も決着するのがいいのでしょうか?或いは喧々諤々とやり合っている方がいいのか。
電車が通過します。
柱が復元され、観光の目玉としても期待されます。まだまだ整備不足という声も聞かれますが、一歩ずつ前進していることは確かです。
纏向遺跡辻地区の入口付近。
この民家の間を通り、南へ進めば復元柱が立っています。
チェーンが張られていますので、この中に駐車することはできません。
日本の国の成り立ちを語る上では、外すことのできない纏向遺跡。インバウンド事業が賑やかになっていく今後、外国人観光客へのアピールも欠かせません。「日本という国」、その壮大なテーマへ向けての舵取りが重要になってきます。