新沢千塚古墳群に隣接する「歴史に憩う橿原市博物館」。
久米寺近くの県道133号線(戸毛久米線)を車で西へ向かい、目的地の博物館へアクセスします。道路を挟んだ真向かいに、博物館の無料駐車場が完備されていました。
1階の資料整理室はガラス張りになっています。
赤い土師器に、黒い須恵器が展示されていました。たまたまお昼休みの時間帯だったのか、室内にはどなたもいらっしゃらないようでした。普段はこの場所で出土品の復元作業が行われているようです。「歴史に憩う橿原市博物館」って名前が長いですよね(^O^) 愛称のイコハクで覚えておきましょう。
歴史に憩う橿原市博物館。
2014年4月に橿原市立新沢千塚資料館がリニューアルされ、「歴史に憩う橿原市博物館」として新たに生まれ変わっています。資料館から博物館へランクアップしてのお目見えです。外観は資料館時代とあまり変わらないようですが、その中身は綺麗に刷新されています。
高温で焼かれる祝部土器(須恵器)
歴史に憩う橿原市博物館にはボランティアガイドの方が常駐されているようです。
ガイドさんに面白いことを教えて頂きました。
須恵器と土師器の違いについて、その覚え方を伝授して頂きました(笑) ご高齢のガイドさんに教えて頂いたのですが、「須恵器は私と同じで、世も末になると黒くくすんでしまうようです」ということでした。さらに土師器については、「恥ずかしいと顔が赤くなるでしょ?土師器の恥(はじ)で赤くなるんです」・・・と。なるほど、ちょっとした語呂合わせで試験対策にはおすすめです。
須恵器の器台。
パズルのように繋ぎ合わされ、見事に修復されているのが分かります。
確かに須恵器は、左側の土師器に比べて黒っぽい色をしていることが分かります。須恵器は大陸系技術を使って素焼きにされた土器です。作られた時期は古墳時代後期から奈良・平安時代までとされます。登り窯を使って高温の還元焰で焼かれるため、その表面は薄墨色を呈しています。食器や祭器として使用された須恵器は、別名を祝部土器(いわいべどき)とも言います。
須恵器を手に取ります。
博物館の入口手前に、実際に土器に触ることができるスペースが用意されていました。
水族館などでもヒトデに触れるコーナーがあったりしますが、見るだけではなく触れることのできる体験は大変貴重です。
身と蓋がセットになった杯ですね。
この土器もその色合いから須恵器であることが分かります。
杯にも蓋をしていたとは意外ですね。今とは少し用途が違っていたのかもしれません。杯の左横に目を移すと、「ハソウ」という名の須恵器が展示されています。胴体部分に小さな穴があり、土器の上部は天に広がった形をしています。ハソウの用途には色々な説があるようですが、穴の部分に竹を挿して中のお酒を注いでいたのではないかと言われます。
イヌガヤの弓が出土@新堂遺跡
歴史に憩う橿原市博物館は4つの展示ゾーンに分かれています。
縄文時代・弥生時代の「かしはらの夜明け」、古墳時代・新沢千塚古墳群の「新沢千塚とその時代」、飛鳥時代・藤原京の「藤原京の世界」、奈良時代から江戸時代までの「京との訣別」に分類されます。
入口入ってすぐの所に、縄文時代の狩猟の様子が案内されていました。
縄文時代の弓矢。
鹿を狙って弓を引く縄文人ですね。
新堂遺跡からイヌガヤという木で作られた黒漆塗りの弓が出土しているそうです。
新堂遺跡は、京奈和自動車道の建設に伴う事前調査で発見された集落遺跡です。京奈和自動車道の建設工事に際しては、新堂遺跡の他にも多数の遺跡が発見されています。インフラ整備によって古代のタイムカプセルが開けられることはよくありますが、歴史に憩う橿原市博物館の展示物のあちこちに京奈和自動車道の恩恵が感じられました。
イヌガヤってどんな木なんだろう?と疑問に思い、さっそく広辞苑を引いてみました。
犬榧(いぬがや)~イヌガヤ科の常緑喬木。暖地に自生。大きなものは幹の高さ約6メートル。樹皮は暗褐色、葉はカヤよりも広く、下面に二条の白線がある。雌雄異株、4月頃開花。種子の核から悪臭のある油を採り、灯油・機械油とする。材は堅く細工物用。ヘボガヤ。
イヌガヤはその材質から細工物に適していたようですね。
狩猟技術の向上に貢献した弓矢。
縄文時代にその使用が始まったものと思われます。新堂遺跡で出土した弓ですが、本体がイヌガヤで、そこにヤマザクラあるいはカバの樹皮が巻かれていたようです。
歴史に憩う橿原市博物館の玄関口に、博物館のロゴマークがありました。
朱雀と星座がデザインされているのでしょうか。
博物館に入館。
2階が歴史に憩う橿原市博物館で、1階には資料整理室、会議室、事務室、収蔵庫、体験スタジオなどがあります。自動販売機の手前にベンチが置かれており、観覧者の休憩スペースになっています。
歴史に憩う橿原市博物館のフロアーガイド。
2階建ての建物で、常設展示・特別展示の博物館は二階部分にあります。
1階の資料整理室。
新沢千塚166号墳の出土遺物のようですね。
新沢千塚古墳群には約600基もの古墳が築かれています。橿原市南西に位置する貝吹山から伸びる丘陵上に、4世紀末から6世紀末にかけて多数の古墳が築造されました。博物館東の丘陵上にも約350基の古墳が密集していると言いますから、その密度には驚くばかりです。
デスクの後ろに積まれているのは出土品の保管箱でしょうか。
作業風景を見学できるなんて、なかなか他の博物館では見られません。
土器に触れるコーナーに置かれていた土師器。
須恵器に比べれば簡易型の土器ではありますが、こちらも歴史の教科書ではおなじみですよね。
うん?
これは鶏を模した土偶でしょうか。とさかのような部分が確認できます。
菖蒲池古墳の版築工法
土器に触れるコーナーから常設展示室へ向かって歩を進めると、左手の壁面に何かが展示されていました。
ボランティアガイドの方の説明によれば、明日香村の菖蒲池古墳を築く際の版築工法が展示されているようです。小山田遺跡のすぐ近くにある菖蒲池古墳は既に見学済みですが、こうやって版築工法の細部まで見学できるのは博物館ならではです。
廊下沿いの壁面いっぱいに展示されています。
土を何層にも突き固めた跡がはっきりと見て取れます。いや~リアルですね。
菖蒲池古墳の墳丘断面図。
土層は、現在に至るまでの長い年月をかけて土が積み重なったものです。土層を観察すると、その土地での人々の営みを知ることができます。まさに土層は、その土地の歴史が積み重なったものとも言えるでしょう。
木の年輪にも匹敵する土層といったところでしょうか。
これは正真正銘の本物です。
それにしても、見事な保存状態ですね。
このような細い棒で突き固めていたようです。
気の遠くなるような作業にも思えますが、いにしえ人のたゆまぬ努力によって古墳が築き上げられていることが分かります。接地面が小さいわけですから、かなりの圧力が掛かっていたものと思われます。
弥生時代中期に最も多く描かれていたという絵画土器。
子供の落書きのようでいて、昔の人の生活様式を知る上で貴重な遺物とも言えます。
副葬品でしょうか。
新沢千塚古墳群のほとんどが直径10~20mの円墳です。前方後円墳、前方後方墳、方墳などもありますが、その大部分が円墳とされます。
新沢千塚の出土品。
興味深いデザインですね。唐草文様に似ていると言えなくもありません。
古代のトイレで使われた「ちゅう木」
「藤原京の世界」展示ゾーンで面白いものを見つけました。
排便の際にお尻を拭き取った籌木(ちゅうぎ)です。
木簡を再利用していたのですね。
694年に産声を上げた藤原京は、ご存知のように短命に終わっています。歴史は710年の平城遷都へと駆け足で移って行きます。平城遷都後、藤原京のあった場所は徐々にその姿を田畑へと変えていきました。
ボランティアガイドの方の説明によれば、藤原京は元々衛生的に問題があったようです。あまり綺麗な都ではなかったようですね。
汲み取り式トイレの写真。
中には「ちゅう木」が溜まっているようです。
こちらは昔のアイロン「熨斗」。
歴史に憩う橿原市博物館では、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、安土桃山時代、江戸時代の展示品も楽しむことができます。
奈良時代の「香山正倉(役所)」、平安時代の集落跡が発掘調査された新賀・木原遺跡、十市氏・越智氏の2大武士団が出現した鎌倉時代、今井町の栄華が語られる江戸時代など、それぞれの時代背景に照ら合わした展示が行われています。
寺内町として発展を遂げた今井町。
当時の高級品であった明や李朝の陶磁器、国産陶磁器の茶器などが出土しているようです。
博物館の受付近くには、平成27年度夏季特別展の「遮光器土器がやって来た!」と題するポスターが貼られていました。定期的に行われる特別展のPRポスターだったようで、残念ながら私はその時期を外してしまいました。
およそ三千年前の縄文時代晩期、橿原には遮光器土偶があったそうです。
大きな眼鏡のようなものを着けている土偶が印象的です。受付のスタッフの方にお伺いすると、当時は氷河期に当たり、地面からの照り返しを防ぐために眼鏡のようなものを着けていたのではないかということでした。
<歴史に憩う橿原市博物館>
- 住所 :奈良県橿原市川西町858-1
- 開館時間:午前9時~午後5時(入館受付は午後4時30分まで)
- 休館日 :月曜日(休日の場合は翌日。連休の場合は休日終了後の翌日。)
及び12月27日~1月4日 - 観覧料 :大人300円 高校生・大学生200円 小学生・中学生100円
- アクセス:奈良交通バス橿原神宮前西口乗り場「近鉄御所駅」行き「川西」下車、徒歩2分。
大和高田バイパス「新堂ランプ」から2.8㎞。