明治維新の魁(さきがけ)となった天誅組。
天誅組終焉の地が、東吉野村の鷲家(わしか)にあります。総裁の一人・吉村寅太郎の墓が、鷲家川の畔にひっそりと佇んでいました。
吉村寅太郎の墓所。
湿気を感じる杉木立の中、巨岩を背に無念の最期を遂げた寅太郎を弔います。
27歳で散った吉村寅太郎を偲ぶ天誅組遺跡
天誅組のリーダー格として活躍した吉村寅太郎。
当時まだ27歳の若者だったと言います。尊王攘夷に身を捧げ、藤堂藩士の放った一発の銃弾に倒れました。五條の地で旗揚げした一連の戦いでしたが、ここ東吉野村で終焉を迎えることになります。
天誅組終焉の地碑。
川沿いに石碑が建ちます。鷲家口から車を走らせ、ここまで辿り着きました。駐車場は特に用意されていませんので、近くに路駐して向かいます。
鷲家川に架かる橋。
天誅組の幟旗がはためいています。
東吉野村は幕末の当時、憂国の志士が幕藩体制を排して国家行政の抜本的改革を目指して、その思想と行動に殉じた地である。即ち文久3年(1863)8月、孝明天皇の神武山稜参詣を機に、倒幕の先鋒と称して、中山忠光卿を主将とし、藤本鉄石、松本杢堂、吉村寅太郎の三士を総裁とした「天誅組」が五條に旗揚げしたが、「七卿の都落ち」に象徴される政変により、事、志に違い幕軍の追討を受けて吉野山間を転戦、同年9月24日から27日にかけて、当村内において3総裁以下15志士が戦死、「天誅組」はついに終焉を見る。しかし、やがて時を経ずして展開された明治維新大業の魁となり、現代日本繁栄の原動力となったことは、その後の歴史が物語っている。 東吉野村 東吉野村天誅組顕彰会
清らかな川の流れ。
人里離れた静かな場所に、天誅組総裁は眠っていました。
苔生した橋の欄干。
岩をすり抜ける清流が心地よく響き渡ります。
杉木立の中へと入って行きます。
どことなく空気が変わるのを感じました。今立っているのは、俗界と聖界の境目でしょうか。文字通りその橋渡しをしている“橋”を渡って行きます。
天誅組遺跡の案内板。
文久3年9月27日、天誅組主将中山忠光卿らの安否を気遣い、木津川より山越えをしてここまで辿り着いた総裁吉村寅太郎は、大岩(寅太郎原えい処)の下流約30m左岸の山際にあった薪小屋に潜伏休憩中に発見密告され、藤堂勢金屋健吉の手の銃弾にて無念の最期を遂げた。
石燈籠が両脇に建ちます。
車道から一つ川を隔てただけの空間ですが、深い杜の中へ入って行くような感覚です。
顕彰碑の右手奥に墓所がありました。
吉野の山中へ敗走する直前、高取城を攻めようとした天誅組。今も高取町役場には、鳥ヶ峰古戦場の石碑が建っています。
吉村寅太郎を偲ぶ漢文ですね。
寅太郎は土佐出身で、「土佐虎勇銃創重」と記されています。この地で負った傷の重さが伺えます。
吉村寅太郎原えいの碑
「残念」と言い残して力尽きた吉村寅太郎。
村人の手によって、この岩の根元に埋葬されたようです。その後、土方直行の筆による原えいの碑が建立されます。明治29年に明治谷墓地へ遺体が改葬された後は、寅太郎を偲ぶ記念碑として今に至ります。
改葬されているとはいえ、かつての墓所です。
様々な思いを胸に手を合わせました。
東吉野村には天誅組遺跡が多く残ります。
菩提寺の宝泉寺や龍泉寺、宝蔵寺などを巡ってみるのも面白そうです。
自然に満ちた東吉野村は避暑地としてもおすすめです。山深い地だけに、真冬は積雪や道路の凍結が心配されます。ピンポイントで探すなら、春秋の桜や紅葉も綺麗でしょうね。
さぁ、あなたも歴史の舞台・東吉野村へ足を運んでみましょう。