神武天皇の ”真の即位地” とされる神武天皇社。
橿原神宮が即位の場所だとばかり思っていましたが、歴史の紐を解くと御所市柏原の地ではないかと言われています。ここは本馬山の麓で、神武天皇の国見説話も残されている場所です。
神武天皇社の鳥居。
この日は被差別部落解放の歴史が学べる「水平社博物館」を目指していました。
偶然その近くにあったお社ですが、とても興味深いことを知りました。神武天皇の本当の即位地!しかも、南へ徒歩1分ほどの場所には神武天皇の前后・吾平津媛(あひらつひめ)を祀る嗛間神社もありました。
掖上の道に鎮座する古代観光スポット
鎮座地の御所市柏原(かしはら)という地名も気になりますね。
言うまでもなく、柏原は橿原を想起させます。この辺りは実際に、柏樹を伐採して拓かれた場所のようです。本馬山の頂にある燕神社にお参りした際、地元の方から色々お話をお伺いすることができました。
神武天皇社拝殿。
本馬山から下界を見下ろすと、曽我川と満願寺川の合流地点や柏原の集落が一望できます。かつては川の氾濫も頻繁にあったようですが、今では立派な堤防が築かれていました。
神武天皇社がお宮跡に指定されると、国に土地を買い取られて移住を余儀なくされる・・・先祖から守り継いできた土地を手放したくないがために、明治期の初めに証拠書類を全て焼き払ってしまったというのです。そしてその後、現在橿原神宮の建つ地に、神武天皇とその后が祀られることになったというお話です。
掖上の道の道案内。
水平社博物館から西へ行けば、東寺田八幡神社、吉祥草寺、JR玉手駅へと通じています。JR掖上駅ですが、現在地から南の方角に位置します。
御祭神・神倭伊波礼毘古命の名が刻まれていました。
長い名前ですが、カムヤマトイワレビコノミコトは神武天皇のことを指します。私たち奈良県民はもう少し短くイワレヒコ、イワレヒコと呼び習わしています。奈良県内には数多くの神武伝承地がありますが、その中でもトップクラスの場所ではないでしょうか。
神武天皇社の案内板。
享保21年(1736)の『大和誌』には、” 橿原神宮 柏原村に在り” と記されているようです。さらに本居宣長も、明和9年(1772)の『菅笠日記』に ”畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いた” と記しています。
真の即位地と伝わる所以が、長々と解説されていました。
拝殿前にはたくさんの石燈籠が並んでいます。
柏原の里の北西方向に、標高143mの本馬山があります。山と言うよりは丘といった趣ですが、国見伝説が残る嗛間丘(ホホマの丘)ではないかとも言われます。神武天皇が掖上にあるホホマの丘に登って国見をしたと言われる場所です。
おそらく嗛間(ほほま)は本馬(ほんま)に通じているのでしょう。
境内に祀られる地蔵尊。
神武天皇が大和巡幸の際、掖上嗛間丘から国の様子を遠望したというエピソード・・・国見の山には幾つかの伝承があり、天香具山などにも似たようなお話が伝わります。神武天皇が「蜻蛉(あきつ)の臀占(となめ)の如し」と言われたことから、「秋津洲の大和」の国号が起こったとされます。
拝殿横にはベンチが置かれていました。
古代地名として伝わる掖上(わきがみ)ですが、この掖上にも深い意味が込められているようです。
掖上の「上」は「神」のことであり、”大神神社の脇” ではないかとする説です。この地には鴨都波神社が鎮座していますが、古くは「鴨都味波神社」だったとされます。つまり、味波は神であり三輪だというのです。
地蔵尊の横に建つ王城院。
残念ながらお堂の中を拝見することはできませんでした。
王城院の脇から水平社博物館へと通じる道。
博物館の前には満願寺川に架かる橋があり、その先に「嗛間山西光寺」が佇んでいます。
地蔵尊に掛かる提灯。
色鮮やかな蓮がデザインされていました。
拝殿から神武天皇社本殿を仰ぎます。
歴史を感じさせる流造りの本殿ですね。天保4年(1833)9月の正遷宮棟札が掲げられます。
神武天皇社の百度石。
満願寺川沿いの柏原エリアですが、昔は一面の田圃だったようです。今では新しい家々が建ち並び、かつての面影を失いつつあります。ご案内頂いた地元の方は柏原の中方(なかほ)にお住まいで、本馬山から広がる風景を感慨深く眺めておられました。
本馬山が「掖上の嗛間の丘」と案内されています。
”昔から嫁入り行列” ”わび住まい” などの文字も見えますが、これは前后を祀る嗛間神社の解説です。後日またアップしようと思いますが、嗛間神社は「さわりの神」とも言われ、婚礼の際は神社の前を通らないようにしたそうです。なんだか意味深ですね。
【神武天皇社の参拝案内】
- 住所 :奈良県御所市柏原246
- 駐車場 :無し
- アクセス:JR掖上駅から徒歩10分