立身出世、学問の神様と仰がれる柳沢吉保公。
郡山城址天守台の南下に、柳沢藩の開祖・柳沢吉保を祀る柳沢神社が鎮まります。桜シーズンの大和郡山お城まつりでは、金魚品評会などで賑わう神社として知られます。大和郡山城の本丸跡に建つ、風格漂うお社です。
柳沢神社拝殿。
郡山城跡で開催中の盆梅展のついでに立ち寄ってみました。
5代将軍綱吉の側用人として仕え、柳沢家中興の祖とも称えられる柳沢吉保公。金魚の養殖をはじめ、様々な恩恵を与えてきたその功績により、明治13年に旧藩士によって神社が創建されるに至りました。その際に植えられた数百株にも及ぶ桜の木が、今では多くの花見客の目を楽しませています。
割拝殿の花菱紋と神明鳥居
大和郡山城跡は桜の名所です。
郡山御殿桜の歴史は、天正16年(1588)に豊臣秀長が多武峰談山神社を郡山に遷座した際、城内に桜を移したことに始まります。その後、柳沢吉里が郡山に入城した時、多くの桜を補植したと伝えられます。
平成2年には、郡山城址公園が桜名所100選の地にも選ばれています。
柳沢神社の割拝殿から望む本殿。
写真では確認できませんが、本殿の前にはなぜか砲弾が祀られているようです。割拝殿の中の引戸には、御神紋の花菱と二重結界の印がデザインされています。
柳沢神社の御神紋「花菱」。
江戸時代に流行した菱紋は、実に400家以上が使用していたと伝わります。一説によれば、正方形がつぶれた形から ”ひしゃげた” 故の ”ひしがた” を意味し、後に菱紋が生まれたのではないかと言われます。
菱紋にも「割り菱」「重ね菱」「折り入れ菱」など様々なバリエーションが見られますが、柳沢神社の神紋は花を模った花菱紋です。
近鉄電車の踏切近くに立つ道標。
郡遊回廊と記されていますね。目指す郡山城跡と柳沢神社は踏切を渡った所にあります。
踏切を渡って西へ進むと、盆梅展の会場を案内する看板が立っていました。
よく目を凝らして見ると、柳沢神社を案内する道標も右隅に見えます。このポイントで、盆梅展会場(駐車場)とは反対方向の左手に取ります。
しばらく緩やかな坂道を上って行くと、右手に柳沢神社の鳥居が見えて参りました。
美しい形の神明鳥居です。
ちょうどこの向かい側には奈良県立郡山高等学校があります。県内有数の進学校で知られる郡山高校の真ん前に建つ鳥居。学問の神様にふさわしい場所ですね。
柳沢神社の手水舎。
鳥居を抜けて竹林橋跡を通ります。そのまま道なりに左へ曲がると、柳沢神社の手水舎と社務所がありました。ここで身を清めて柳沢神社にお参りです。
柳沢神社の由緒。
御由緒の案内板に創建年と例祭日が記されていますね。柳沢神社の例祭は11月2日のようです。
拝殿の右手前に建つ社号標。
御祭神の柳沢吉保公の名が刻まれます。「旧川越甲府城主柳澤美濃守吉保公」と書かれていますね。ここ柳沢神社は、実在した人物を神様と仰ぐお社です。
玉砂利の参道が拝殿前へと続きます。
空は晴れ渡り、雲との対比が実に美しく映えます。
割拝殿の通路上に掲げられた奉納絵馬。
合戦の模様が描かれているのでしょうか。
拝殿入口には「柳澤神社」と記された扁額が掲げられています。この文字は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆によるものだそうです。
拝殿の左側に回り込むと、何やら新しい祠が祀られていました。
こちらも神社の表玄関と同じく、神明鳥居が結界を張っています。
残念ながら何が祀られているのか、チェックするのを忘れてしまいました。
すぐ背後には石垣が迫っていますね。
祠の右側に目をやると、塀を挟んで御神木と本殿が並んでいます。
本殿は一間社流造の建物です。
注連縄と紙垂で結界の張られた御神木。
その向こうに石垣を望みます。本丸跡でしょうか?崩れ落ちる恐れがあるようで、周囲は立ちりり禁止になっていました。
拝殿前に七五三詣の絵馬が掛けられていました。
立身出世や学問の神様ということで、子供の健やかな成長を願う参拝客も多いのでしょう。
境内の提灯にも花菱紋が描かれています。
柳沢神社の南西方向には、柳沢家の菩提寺・永慶寺があります。永慶寺にもお参りして来ましたが、境内には同じく花菱紋が見られました。郡山高校野球部の練習場が道を挟んですぐ前にあり、永慶寺境内には高校球児たちの掛け声がこだまします。
柳沢家ゆかりの永慶寺には、創建者でもある柳沢吉保とその妻・定子の木彫着色坐像が寺宝として祀られます。柳沢神社を訪れたなら、是非ともその足で永慶寺の門をくぐられることをおすすめ致します。
柳沢神社から柳沢文庫、追手門へと通じる道。
ぐるりとお堀の周囲を巡って、盆梅展が催されている会場へと向かいます。
<柳沢神社参拝案内>
- 拝観料 :無料(境内自由)
- 住所 :奈良県大和郡山市城内町2-18
- アクセス:近鉄橿原線郡山駅下車徒歩5分