明日香村埋蔵文化財展示室のすぐ近くに、斉明天皇時代の漏刻台跡が残されています。
産直市場の「あすか夢の楽市」にも程近く、買物ついでに見学できる場所にあります。規則正しく打たれた杭が印象的な遺跡です。甘樫丘、甘樫坐神社、雷丘、飛鳥寺、飛鳥坐神社なども徒歩圏内ですので、水落遺跡の周辺観光を楽しむルートを組んでみても面白そうです。ちょっと足を伸ばせば、奈良県立万葉文化館の見学も可能なエリアです。
明日香村飛鳥にある水落遺跡。
周辺に溝の巡らされた方台形の原っぱが広がります。その中にいくつもの木杭が打たれ、ここが何かの遺跡であることをうかがわせます。水落遺跡の向こう側には駐車場が見えていますね。さらにその奥向かって右側の屋根が明日香村埋蔵文化財展示室、左側の屋根はあすか夢の楽市です。
古代の饗宴場近くに設けられた水時計
飛鳥寺西方エリアはかつて、斉明朝から天武朝にかけての饗宴の場であったと伝わります。
水落遺跡の北にある石神遺跡からは、迎賓館と推定される大規模な掘立柱建物群が見つかっています。水落遺跡から石神遺跡まで木樋暗渠(もくひあんきょ)が延びていたことからも、水落遺跡と石神遺跡は一連の遺跡であると考えられています。
石神遺跡から出土した須弥山石や石人像はよく知られるところですよね。水落遺跡との位置関係から言っても、お互いに密接に繋がっていたのではないかと思われます。
特に目を見張るものもない水落遺跡ですが、その傍らに綺麗な花が咲いていました。
心和らぐ瞬間です。
水落遺跡の解説パネルがありました。
史跡指定を受けているようですね。Historical Site と案内されています。
斉明天皇6年(660)5月、皇太子中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせた、と「日本書紀」に書かれています。「日本書紀」はその場所について何も語っていません。1981年にその水時計の遺跡が、ここ飛鳥水落遺跡で掘り出されたのです。
ここでは、精密に、堅固に築いた水時計建物と、建物内の中央で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置とが見つかりました。水時計建物を中心にして、水を利用したさまざまな施設があることも分かりました。
古代の漏刻台跡がこの場所で発見されたのです。
時刻を計るために用いられた水時計ですが、原理的にも水が落ちていくことから「水落遺跡」と命名されたものと思われます。令制の下では、時刻を知らせる役目を担う漏刻博士(ろうこくはかせ)も居たと伝えられます。
国を治めるためには様々な秩序が求められますが、その最たるものが時刻だったのかもしれません。現代に生きる私たちは当たり前のようにその恩恵にあずかっていますが、飛鳥時代の人々にとって時刻を知ることは、個人や組織を律するためにとてもありがたい手段だったはずです。
飛鳥水落遺跡が史跡指定を受けた、昭和51年2月20日の日付けが記されます。
当時の日本は、中国の先進文明を積極的にとりいれて、律令制に基づく中央集権的な国家体制を急速にととのえつつありました。中大兄皇子は、中国にならい政治や人々の社会生活を、明確な時刻制によって秩序づけようとしたのです。
時計装置の製作と運用は、当時の最新かつ最高の科学技術を結集した国家的な大事業であったことでしょう。その意味において、飛鳥水落遺跡は律令国家確立への記念碑といえるでしょう。
水落遺跡の片隅にこんな場所がありました。
方形に区画されたスペースは何を意味するのでしょうか。
水落遺跡の構造が図示されています。
礎石と地中梁。堅固で、特異な基礎工法を採用しています。受水槽や木樋は、基礎工事の途中で埋め込んでいます。
水落遺跡の基壇は、下底辺22.5m四方で約17度の傾斜をもつ方台形でした。
基壇の四周には、底幅約1.8mの貼石を施した溝がめぐり、基壇上には四間四方で中心の柱を欠く総柱風の建物が建てられていたと言います。
水落遺跡の建物内。
1階が時計装置で、2階には時刻を知らせる鐘や太鼓があったようです。こうして見ると、より具体的に当時の様子がイメージできますね。
何やら階段状になっていますね。
上から順に下方へと流れ落ちる仕組みなのでしょうか。
水落遺跡の見学は無料です。
入場料などは一切不要です。駐車場脇にただただ、のんびりとその姿を讃えています。右前方には天から降って来たという天香具山が見えています。ここは大和三山を望む風光明媚な観光スポットでもあります。
鐘を撞いて時を知らせていたようです。
この絵が真実ならば、最後はやはり人力だったということですね(笑) 昼夜交代で番をする役人がいたということでしょうか。さすがにこのあたりは古代を感じさせる光景です。
周囲の溝に渡された橋。
重要人物をおもてなしする饗宴の場近くに、時を知らせる水時計があった。
諸外国からのお客様も多かったものと思われます。当時の外国の ”時間事情” はどのようなものだったのでしょうか。
今の世の中、スマホやケータイに席巻されて腕時計の出番も少なくなっているような気が致します。一昔前までは、時刻を知るには腕時計が必須アイテムだったわけですが、今はもうスマホですよね。家の柱時計に目をやる機会も減りました。かように時間事情は、時代の流れの中で刻々と変わっていきます。
飛鳥寺近くの柱礎石に「秩序」を見る
水落遺跡は飛鳥寺の近くにあります。
方角的には飛鳥寺の北西方向に位置しています。浅い堀に囲まれた土塁の上に、柱の礎石が並び立つ飛鳥水落遺跡。大化の改新の立役者・中大兄皇子が造り上げた水時計は、時を超えて時間の大切さを語りかけてきます。
水時計跡の東南部からも、漏刻台以前の大規模建物や長廊状建物が検出されているそうです。
飛鳥寺西方は、中大兄皇子と中臣鎌足(藤原鎌足)が出会った場所とされます。歴史が大きなうねりを上げて動いていく、そのきっかけになった場所なのです。飛鳥寺西方からその北西部に当たる水落遺跡までのエリアには、まだまだ古代ロマンがたくさん詰まっているのかもしれません。
水時計台の背後に飛鳥寺の塔を望みます。
一塔三金堂の特異な伽藍配置で知られる飛鳥寺が、水落遺跡のすぐ近くにあったのです。
飛鳥寺のへのアクセス道。
ちょうどこの辺りが飛鳥寺西方に当たります。
飛鳥寺の入口は2箇所あって、もう片方の東側が表玄関になっています。東門前には大型観光バスの駐車スペースも設けられており、土産物店なども見られます。一方の西側は飛鳥寺西方遺跡などでも知られるように、地下には何が埋まっているか分かりません。ここはロマンあふれる場所なのです。
水落遺跡の時を知らせる鐘の音は、飛鳥寺にも届いたことでしょう。
日本最古の仏像として名高い釈迦如来坐像(飛鳥大仏)も、その音を聞いていたのかもしれません。訪れる人も少ない水落遺跡ですが、ここが律令国家の秩序を司ったメッカと考えれば、その重要性も増すというものです。
漏刻台が無ければ、日本という国は秩序立てられなかった。あながち大袈裟でもない、これぞ急所を突いた史実なのかもしれませんね。
柱の礎石が整列します。
日本の秩序はここから生まれた。
綺麗に並べられた柱礎石を見ながら、小さな宇宙を感じてしまうのは私だけではないでしょう。混乱しがちな世の中を治めていくには、時を支配する必要があった。まずはそこから、そんな天智天皇の想いが伝わってくる遺跡ではないでしょうか。