穴師坐兵主神社には三神が祀られています。
三神が祀られるようになった経緯は、長い歴史の中で複雑に絡み合います。それはさておき、元来祀られていたという巻向山の弓月ヶ嶽のことが気になります。二つの峰から成る巻向山ですが、向かって右側が弓月ヶ嶽。その山頂近くの台地を「夏至の大平(げしのおおだいら)」と呼び、箸墓古墳との関係が取り沙汰されます。
穴師坐兵主神社のもみじ。
紅葉する葉に落葉する葉、それにまだ色付いていないものまで様々な段階のもみじが見られました。紅葉の穴場スポットとしても知られ、山の辺の道の散策ついでに立ち寄る人も多いようです。
「夏至の大平」と太陽
卑弥呼の墓ではないかと伝わる箸墓古墳。
その箸墓古墳から見ると、ちょうど夏至の日に弓月ヶ嶽方向に太陽が昇るそうです。古代には、稲の生育を祈る祭事がゲシノオオダイラに於いて行われたのではないかと言われます。春分と秋分の日には三輪山から太陽が昇ります。三輪山の麓、檜原神社の鳥居越しに見られる日没風景はあまりにも有名ですよね。檜原神社から真西の二上山に日が落ちていく様子には、古代との共有空間が感じられます。春分と秋分が三輪山なら、夏至の日のサンライズは巻向山の弓月ヶ嶽だったのですね。
拝殿前の覆い被さるような紅葉。
既に地面には紅葉絨毯も敷き詰められていました。
穴師坐兵主神社の鳥居。
この石鳥居をまじまじと見るのは初めてでした。今までも何度か目にしていたはずなのですが、あまり気にも留めずに通り過ぎていました。穴師坐兵主神社の鳥居だったとは・・・。鳥居のある場所は境内から遥か西へ、国道169号線をまたいでJRの線路近くに位置しています。どうやら鳥居の下をくぐることは出来ないようですね。
「正一位穴師大明神」と刻まれます。
穴師の地名の謎は以前にもご紹介しましたが、山の辺の道沿いの”金屋”などと同じく、鍛冶技術に長じた人々が暮らしていたことに因みます。兵主神社という名前からも、軍神的な性格がうかがえますね。
鳥居の笠木でしょうか。
立入禁止になった鳥居の袂に置かれていました。三段積みの石は石灯籠の基壇だと思われます。
この鳥居のある場所からてくてくと東へ参進していくのですが、途中には珠城山古墳群や纒向日代宮跡(まきむくひしろのみやあと)があります。纒向日代宮跡は景行天皇の宮跡ですが、ここにも太陽を思わせる「日」の字が使われていることに気付きます。
相撲神社の手前の顔出しパネル。
穴師坐兵主神社の手前に設置されていました。
土俵入り姿の力士が観光客を出迎えます。野見宿禰伝説で知られる相撲神社ですが、実は穴師坐兵主神社の摂社という位置付けです。ここは相撲発祥の地であり、勝負運向上にご利益のあるパワースポットでもあります。
「穴師かむなびの郷」から眼下には、日本初の都市国家・纏向遺跡を望みます。
皇帝ダリアが開花していました。
背の高い華やかな花ですよね。花の少ないこの時期にあって、見事なまでの咲きっぷりを披露していました。
穴師坐兵主神社の石段。
相撲神社境内横の二の鳥居を抜けて、しばらく道沿いに進むと左手に駐車場が見えて参ります。さらに歩を進めると、いよいよ穴師坐兵主神社の入口付近です。参道沿いの紅葉が見所になっていますが、今年の色付きはイマイチといったところです。
境内に重ねる神聖な斎槻ヶ嶽
かなり上手まで登って来たなぁ。
いつも穴師坐兵主神社の参拝で思うことです。笠山三宝荒神ほどではありませんが、いずれにせよ急な坂道を上ってアクセスする神社です。よほどの目的意識でもない限り、ここを訪れることはありません。
手水舎。
この場所で身を清めてから参道を進みます。そう言えば、拝殿手前の右奥に神秘的な雰囲気を漂わせる池がありました。あの池もかつての禊場だったのでしょうか。とてもスピリチュアルな空気を感じました。
祓戸社。
出雲大社の参詣道にもある祓戸社ですが、意外と見過ごす人が多いと先日のTVでも放映されていました。もちろん、出雲大社に限らずおおよそどこの神社にも見られる祓戸の神です。まずはここで手を合わせて、参拝の始まりです。物事には順番がありますからね、焦らず急がずゆっくりとお参りしましょう。
唐破風の拝殿が左手に見えて参りました。
その手前に枝を伸ばす紅葉が・・・と言いたいところだったのですが、少しタイミングが遅かったようですね。訪れたのは12月の初め、見頃は既に過ぎてしまっていました。
穴師坐兵主神社(大兵主神社)の案内。
拝殿の背後には本殿が祀られており、左から大兵主神社、兵主神社、若御魂(わかみむすび)神社が並び建ちます。
当社は三神殿にして、古典の伝えるところでは第十代崇神天皇60年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、延喜の制で名神大社に列せられ、祈念・月次・相嘗・新嘗のもろもろの官幣に預かり、元禄5年には正一位の宣旨を賜った最高の社格を持つ大和一の古社である。
衣食住を司る広き厚きご神徳を頂く神である。
”最高の社格を持つ大和一の古社” とは、これ以上にはない賛辞ですね。
境内で塩を撒くことは禁止されているようです。
塩害で草木が枯れてしまうのですね、参拝客は十分に注意しなければなりません。
三ツ屋根造りの神殿に三社を合祀する穴師坐兵主神社。
弓月ヶ嶽の頂上近くに鎮座していた元のお社は、応仁の乱で焼失してしまいます。その後、現在地の穴師山麓に祀られる穴師大兵主神社に合祀されることになりました。
境内にトイレは無いようです。
ここから500m下手の広場に、県営水洗トイレがあるとのこと。500mといえばちょっとした距離です。紅葉シーズンともなると、辺りの冷え込みも感じられます。紅葉狩りに訪れる方は、境内に入る前に用を済ませておきましょう。
紅葉を愛でる心の余裕は、いつまでも持ち続けていたいものですね。
日常の些事に追われていると、つい忘れてしまいがちになります。
拝殿右手奥にも祠が祀られていました。
紙垂が下がり、結界が張られています。
こちらは出雲風のお社ですね。
思えば出雲の地も、砂鉄の産地として知られます。大兵主神社の御祭神にも出雲系の神が見られ、軍神的な性格を帯びているのが分かります。
拝殿前には狛犬が二体陣取っています。
拝殿向かって左側には社務所のような建物がありました。
弓月ヶ嶽は斎槻ヶ嶽(ゆつきがだけ)とも記されます。
槻の木ですね。
古来より神聖視されていた槻(けやき)ですが、飛鳥寺西方の槻の逸話はあまりにも有名ですよね。槻の木の下で宴が催され、中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠に興じたと伝えられます。
ケヤキは古代に槻(つき)と呼ばれていたわけですが、槻(つき)の語源は強木(つよき)にあるとも言われます。材質が硬くて丈夫な槻は弓の原料としても使われたようです。
纒向遺跡で発見された掘立柱建物群は記憶に新しいところです。
掘立柱建物群の東西中心線を東へ延長すると、斎槻岳の山頂を指すと言います。いかに弓月ヶ嶽が神聖な場所であったかがうかがえますね。
こちらは相撲神社境内。
整備された土俵を見たかったのですが、残念ながらこの日はブルーシートが被せられていました。
石燈籠の竿に「穴師社」と刻まれています。
かつては弓月ヶ嶽上にあって「上社」と称していましたが、今は「下社」の穴師大兵主神社の現社地に遷座しています。創建は詳らかではありませんが、社伝によれば垂仁天皇2年の御鎮座とされます。
<穴師坐兵主神社の参拝案内>
- 住所 :奈良県桜井市穴師
- 御祭神 :兵主神、若御魂神、大兵主神
- アクセス:バス停相撲神社口下車、東へ約2㎞