人は必ず死を迎えます。
生と死の狭間には、四十九日などの曖昧な期間が設けられています。その境界線はおぼろげで、あの世への準備期間のようにも思えます。かつて貴人を本葬する前に、そのご遺体を安置する場所を殯(もがり)と言いました。
現代は廃れてしまった風習ですが、大淀町の今木に「殯の宮」が残されています。
保久良古墳の横穴式石室。
保久良(ほくら)古墳は7世紀前半、飛鳥時代の円墳です。
被葬者は斉明天皇の孫・建皇子(たけるのみこ)ではないかと言われます。タケルノミコは口のきけない唖者(あしゃ)で、わずか8歳で早逝しています。甚くタケルノミコを可愛がっていた斉明天皇は、自らの墓に合葬するように言い残していたようです。
今木は荒城?片袖式横穴式石室が開口
この日、私は今木権現堂の泉徳寺を訪れていました。
国道169号線から309号線に入り、郵便局の手前を左折して泉徳寺へ向かいます。一通り拝観を済ませた後、その足で甲神社~坂合黒彦皇子墓~保久良古墳を巡りました。
保久良古墳の開口部。
注連縄が張られ、入口付近にはお供え物がありました。
今木という地名ですが、古文書には「今城」と出ています。墳墓を意味する「奥津城(おくつき)」という言葉があるように、城は墓所のことです。さらに今城(いまき)は、新木(いまき)や荒城(あらき)にも通じています。荒城とは殯のことであり、死骸の仮安置所を意味します。
石室の羨道から開口部に振り返ります。
匍匐前進の必要はありませんが、屈んで入らないと無理な高さでした。
本葬前の一定期間、ご遺体を別の場所に安置する。
その意味するところは何だったのでしょうか?蘇生を願ったのか、あるいはその反対に二度と蘇らないように見届けるためだったのか。どっちつかずのボーダーラインを彷徨う死者の魂を慰める場所だったのでしょうか。
オセロのように黒と白を簡単にひっくり返せない。
人の気持ちとはそういうものですよね。この世に残された人の想いは複雑です。現実の殯がどのようなものだったのか想像の域は出ませんが、腐敗して骨になるまで見届けたとも言われます。火葬が当たり前の現代では考えられませんよね。
そういえば、建皇子の実姉は持統天皇とされます。
持統天皇は明日香村野口にある天武持統天皇陵に葬られていますが、天皇で初めて荼毘に付された女帝です。その後時代は薄葬へ向かい、徐々に殯の風習も廃れていったものと思われます。
よどりタクシーの停留所。
国道390号線沿いの「今木中垣内」です。
ここからやや北方に保久良古墳はあります。
道路沿いに立つ道案内。
50mほど上がって行きます。保久良古墳は大淀町指定文化財なんですね。
道案内が立つアクセスポイント。
この坂道を登りますが、既に墳丘が見えていますね。
右手の墳丘です。
この階段を上がって行くようです。
石段ではなく、ゴム製?の階段ですね。
これは珍しい。
階段を上がり切ると、右手へ向かいます。すぐに開口部を見つけました!
ぽっかりと開いています。
後で分かったのですが、この穴は横穴式石室の開口部ではなく、玄室の石材が一部抜かれているんだそうです。急勾配で下へ向かっていたため、えっ!ここから入るの?と一瞬ためらいました。でも、入口はここではありませんのでどうぞご安心下さい。
玄室の北東部が抜けているようです。
玄室内にはブルーシートが敷かれていますね。
少し引いて撮影。
野菜畑と墳丘の間を縫うように道が通っています。この道を通って、右向こうへと回り込みます。
案内板がありました。
別称『建王殯塚(たけるのみこのもがりづか)』と記されています。
開口部へは梯子のようなものが渡されていました。
生まれつき声が出なかったというタケルノミコ。
案内板には家系図も示され、建皇子が天智天皇の子であることが分かります。
墳丘の西側へ回り込みます。
土砂を堰き止めるためか、外護列石が並んでいたそうです。
ここまで来たなら、やはり石室インに挑戦です。
玄室の石材が抜かれているため、全体的に石室内は明るかったです。
『日本書紀』に残る斉明天皇の歌
タケルノミコを可愛がっていた斉明天皇。
その死を悼み、悲嘆に暮れる様子が日本書紀に残されています。
今城(いまき)なる 小丘(をむれ)が上(うへ)に 雲だにも
著(しる)くし立たば 何か嘆かむ
せめて雲だけでも、はっきりと湧き立ったなら、それを糧として何の嘆くことがあろうか。タケルノミコの死に直面し、悲しみに暮れる斉明天皇の様子が伝わってきます。
歌の情景を想像してみます。
この時、今木の地に雲は湧き立っていたのでしょうか?おそらく湧き立っていなかったのでしょう。せめて雲がモクモクと姿を現したなら、励みになっただろうに・・・そんな余韻を感じさせます。
タケルノミコの亡骸が安置された石室。
殯の場を離れた建皇子は、その後『斉明天皇越智崗上陵』に合葬されたのでしょうか。高取町車木にある車木ケンノウ古墳(斉明天皇越智崗上陵)が斉明天皇の墓だと言われていましたが、最近の説では牽牛子塚古墳が有力です。
どちらに葬られているにせよ、斉明天皇のすぐ傍であることを願います。
開口部から中の様子をうかがいます。
玄室の奥壁まではっきり確認できます。
石室の中へ入ります。
規模の割には羨道が長く感じられますね。
全長は9.5mです。
比較的入りやすい横穴式石室ではないでしょうか。
玄室空間にも光が届いています。
石室床面の堆積土からは、琥珀玉が出土しているようです。
羨道と玄室の境目辺り。
棺が納められていた玄室ですが、一段低い設計になっています。
こんな感じ。
吉野川の結晶片岩材が採集されており、ここに組合式石棺が納められていたのではないかと言われています。
玄室の天井石。
建皇子は658年没と伝わります。
長い年月にわたって、この空間が守られてきたことに敬意を表します。
開口部へ向き直ります。
「今城谷の上に殯を起てて収む」。
ここは殊の外、斉明天皇の想いが詰まった場所ですね。
保久良古墳の見学を終え、国道309号線を南東へ向かいます。
この道はサイクリングロード ”ならクル” の巨勢ルートにもなっているんですね。
公共交通機関で保久良古墳へアクセスする場合は、近鉄・JR吉野口駅が最寄りになります。駅から南へ徒歩20分ほどで到着します。
古代史ロマンあふれる保久良古墳。
周辺の泉徳寺や甲神社、坂合黒彦皇子墓とのセット見学をおすすめします。