京都大文字山の西麓に広がる鹿ケ谷。
鹿ケ谷(ししがたに)のシシは鹿や猪を表す古語として知られます。おそらく鹿や猪の姿が見られたエリアだったのだろうと推察できます。鹿ケ谷は1177年、俊寛僧都・藤原成親・僧西光らが会合して、平家滅亡を図った山荘のあった場所とされます。霊鑑寺の東方山中に、その跡地である談合谷(俊寛山荘跡)が残されています。
静寂に包まれる京都安楽寺山門。
右手には「浄土礼讃根源地」と刻まれた石碑が建ちます。
哲学の道の東方山手に、銀閣寺方面へ南北に伸びる道があります。霊鑑寺からさらに北へ進むと、法然の弟子の住蓮と安楽が開いた念仏道場の跡に建つお寺が見えて参ります。お寺の名前を安楽寺と言います。毎年土用の7月25日にカボチャ供養が行われるお寺としても知られます。
悲話が語り継がれる安楽寺
安楽寺には悲しいお話が伝わっています。
時は鎌倉時代の初め、法然の弟子である住蓮と安楽の二人が念仏道場を開いたところ、後鳥羽上皇の宮女であった鈴虫・松虫両姫が、あろうことか教化され出家に至るという事件が起こりました。後鳥羽上皇の怒りに触れた二人の僧は死罪に処せられました。さらに法然は土佐へ、親鸞は越後へと流罪になりました。
安楽寺はそんな悲劇の主人公、住蓮と安楽の菩提を弔うために建立されました。
哲学の道沿いに流れる琵琶湖疎水の畔に、安楽寺を案内する道標が立っていました。
西の方角へ行けば黒谷、真如堂、東へ取れば徒歩3分で霊鑑寺、さらには徒歩5分で安楽寺と出ています。
安楽寺山門前の石碑には、円光大師霊場の文字も見られます。
円光大師とは法然のことを指します。
拝観謝絶の期間が長く続く安楽寺ではありますが、毎年春と秋には日を決めて境内が公開されます。春の桜やツツジ、秋の紅葉は実に見事で、訪れる参拝客を和ませてくれます。
雪の降り積もる哲学の道。
夏に催される南瓜供養の行事には、数多くの参拝客が集います。
京都の伝統野菜である鹿ケ谷かぼちゃは栽培量が減ったとはいえ、京都が誇る京野菜の一つに数えられる逸品です。その見た目は瓢箪にも似ています。上部と下部に分かれた形をしており、品質の良さが売りです。鹿ケ谷一帯では明治以降、琵琶湖疎水が整備されるようになり、徐々にかぼちゃ畑も水田に変わってしまいました。
安楽寺からさらに北へ進むと、ほどなく右手に法然院の門が見えて参ります。
その昔、鹿ケ谷一帯で栽培されていた鹿ケ谷かぼちゃ。
時代を遡ること西暦1800年頃、洛東粟田村の玉屋藤三郎という農民が津軽を旅した時のことです。
津軽で目にしたかぼちゃの種を京に持ち帰り、隣村の鹿ケ谷に住んでいた百姓庄兵衛と又兵衛に手渡します。そこで栽培してみたところ、突然変異により瓢箪の形のかぼちゃが誕生したと伝えられます。
法然院の石灯籠に、開山円光大師と刻まれています。
鹿ケ谷かぼちゃ供養は、中風に罹らないように祈願する行事です。
7月25日当日に訪れた参拝客には、煮炊きされた鹿ヶ谷カボチャが振る舞われます。
さらに当日の本堂では、安楽寺縁起絵、剃髪図、九相図などの宝物(掛け軸)十数点も虫干しを兼ねて公開されます。10時と15時からは絵解きも行われ、普段は静かな境内もこの日ばかりは賑わいを見せます。
日本におけるかぼちゃの歴史は意外と浅く、16世紀半ばにポルトガル船によってカンボジアから伝来したことに始まります。カンボジアが転訛してかぼちゃになったという経緯があります。日本の南方から伝えられた瓜ということで、南瓜と書くわけですが、関西地方では音読みして「なんきん」と呼ぶことが多くあります。
哲学の道を散策しながら訪れる安楽寺。
公共交通機関をご利用の場合は、安楽寺へのアクセスは市バス錦林車庫前下車で徒歩7分となっています。駐車場は用意されていませんので、マイカーでのアクセスは控えた方が良さそうです。