多観音堂の十一面観音!田原本御佛三十三ヵ所巡礼

多神社の東方にある観音堂を訪れました。

田園風景の広がる場所にポツンと佇む観音堂で、平安時代の十一面観音を祀ります。

式内社の多神社周辺には、多神社の若宮社が散在しています。こちらの観音堂ですが、かつての神宮寺の名残りのようです。

多・観音堂

田原本町多の観音堂。

西に多神社、東には姫皇子命神社が鎮座しています。

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ボダイボダイ行事と大飯喰い行事

多の観音堂には興味深い伝統行事があります。

正月3日に行われる”竹を打ち叩く”ボダイボダイ行事や、花見シーズンの大飯喰い行事など、昔懐かしい日本の伝統を残しています。途絶えることなく受け継がれることを願います。

多・観音堂

田原本御佛三十三ヵ所巡礼の第23番に指定されています。

観音堂の東の念仏寺が第24番ですから、連番ということになりますね。

田原本町多の念仏寺
融通念仏宗の念仏寺。 多神社の東方に、田原本御佛三十三ヵ所巡礼の第24番札所があります。いわゆる「太陽の道」沿いに位置していました。西のライン上に姫皇子命神社と多神社、遥か東方には三輪山を望みます。 田原本町大字多に佇む念仏寺。 多の集落内...

念仏寺の仏像も十一面観音(平安時代)でした。おそらくどちらも多神社の神宮寺に由来するものでしょう。

多・観音堂の十一面観音

田原本御佛三十三ヵ所巡礼(やすらぎと歴史遺産を訪ねて)

観音堂のご本尊・十一面観音が案内されていました。どうやら厨子の中に安置されているようです。

第23番 多 観音堂
本尊 十一面観音菩薩立像 平安時代後期 像高107.3cm

多・観音堂の歴史

多・観音堂は明治の廃仏毀釈、神仏分離令までは多座彌志理都比古神社の真言宗・神宮寺で
天正2年(1574)「観音堂」と『多・神宮寺観音下地田数帳』に見える。

寛文3年(1663)鬼瓦に紀年銘
貞享3年(1686)「観音堂」と『郡山藩明細帳』
江戸時代 大和国三十三ヵ所第11番札所

念仏寺の十一面観音より少し背の高い観音様です。

この日、私は秦楽寺から南へ向かいました。奈良県立教育研究所を過ぎ、大和高田桜井線・50号線まで出てくると、道路脇の花壇にツツジの花が咲いていました。

多神社の社叢

ツツジ越しに多神社の社叢を望みます。

この辺りは長閑な田園風景が広がり、とても気持ちの良い場所です。

畝傍山

遥か南方には畝傍山を望みます。

大和三山の中でもその独特な山容で人気です。麓には初代神武天皇を祀る橿原神宮が鎮座しています。

多神社の社叢

この畦道を進んで行くと、観音堂や多神社に辿り着きます。

古代からほぼ変わらないであろう景色に安堵を覚えます。

多観音堂

観音堂前に垂れ下がる枝葉。

これは桜の葉っぱでしょうか。確認不足でしたが、多の観音さんの花見で講員たちを楽しませた木かもしれません。

ボダイボダイと牛蒡喰行事

ボダイボダイと牛蒡喰行事。

観音堂の床を「ボダイボダイ」と大声を張り上げながら激しく叩く!飛び散った竹の小片の清掃をしてから、牛蒡喰行事へと移るようです。

「ボダイボダイ行事」
多・観音堂では江戸時代から毎年正月三日、先祖代々菩提の追善供養と五穀豊穣の行事として「ボダイボダイと牛蒡喰行事」が行われている。

この行事は当日、観音堂において観音講の「東方」「西方」の両座頭以下年長~を挟んで着座し、僧侶が観音経二巻を読経する。その読経中、講員は「ボダイボダイ」~大声を張り上げて女竹で堂の床を激しく叩く騒音と女竹の小片が散乱し、誇りが~騒然となる。

「ボダイボダイ」の乱声(らんじょう)には、先祖代々の菩提を弔う意味があるのでしょう。

それと同時に、疫病退散の願いも込められていたのかもしれません。神様の出現に際し発せられるのが乱声ですが、どんな声音なのか実際に聞いてみたいものです。

多・観音堂

観音堂の右手前に礎石のようなものがありました。

ここはお堂が建つのみで、周りには結界を示すものが見当たりません。自然の中に野放図に建っている感じがいいですね。

多の観音さんの花見と大飯喰い行事

多の観音さんの花見と大飯喰い行事。

大豆汁を振りかけた牛蒡と、蓮華餅の写真が案内されています。

「牛蒡喰行事」のゴボウは干瓢(かんぴょう)で束ねられ、摺った枝豆を上から掛けているようです。ずんだ和えのようなものでしょうか。

多の観音講では昭和15年頃まで桜の咲くころ、「今日は観音さんの花見だ」と云って「大飯喰行事」を行っていた。

当日、早朝より当番の講員6名が頭屋の家へ集まり頭屋と一緒に献立の準備をする。献立は本膳に径4寸(約12cm)高さ2.5寸(約7.5cm)の飯茶碗に白飯を山盛りにし、高苣の煮炊き、乾鰤が添えられる。講員が着座すると頭屋が挨拶し、講員が食べ始めると飯を食べきらない内に減った分の飯を給仕人が懸飯と称して次から次へ懸飯し、食べられなくなった講員が「結構・閉口」といって行事が終わる。

これは日頃、白飯が充分食べられないがこの日は満腹するまで白飯が食べられる行事である。

腹いっぱい白米が食べられるのは有難いことです。

当たり前のようでいて当たり前ではない。飽食の時代に見つめ直すことは多いでしょう。大和の地に連綿と受け継がれる伝統祭事には、改めて学ぶところが多いような気がします。

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