久米仙人で知られる久米寺山門近くに鎮座する久米御縣(くめのみあがた)神社。
垂仁天皇27年紀に「是歳屯倉を来目邑に興す」とあり、かなり早期からこの地にあったものと思われます。江戸中期から明治初年にかけては、天神社・天満宮と呼ばれていた時期もありましたが、明治中期以降は、元の久米御県神社に戻っています。屯倉(みやけ)とは「御家(みやけ)」の意味で、朝廷の直轄領のことを指します。大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積していた倉を屯倉と言い、久米御縣神社の名前にもある「縣(あがた)」とも通じるものがあります。
久米御縣神社の拝殿。
そもそも、この縣(あがた)とは境を分って(あかって)開墾した田を意味しています。
大和朝廷の時代、諸国に存在していた皇室の直轄領を縣(あがた)と言っていたのです。
奈良県内にはこの御縣神社と称する神社が幾つか見られます。山の辺の道にある崇神天皇の皇居跡・磯城瑞籬宮跡の鳥居額束には「志貴御縣社」と記されています。皇室の直轄領ということで、久米御縣神社の周辺をうかがってみれば、初代神武天皇を祀る橿原神宮がすぐ近くに鎮座していることに気付かされます。
久米御縣神社の北には、空海ゆかりの久米寺があります。久米寺の由緒には諸説ありますが、その創建は推古天皇の勅願によるものと伝えられます。その南方に鎮まる久米御縣神社。神社拝殿と、その奥の本殿はいずれも西の方角を向いて建っています。
神武天皇の家臣・大久米命
久米御縣神社の鳥居前は久米町子供広場になっていました。
久米寺の駐車場は山門脇に用意されていますので、くれぐれも久米町子供広場に駐車することのないように注意しましょう。
久米町による案内板が立っていました。
写真左手に見える石垣の向こうは久米御縣神社の境内です。石灯籠にはかつての呼称であった天神社の文字が見られます。
久米御縣神社の御祭神が案内されています。
高皇産霊神(天地開闢の時、高天原に出現した神)、大来目命(大久米命、大和朝廷の軍事を掌った久米氏の祖神)、天櫛根命(久米氏の祖神と関係の深い神)の三柱が御祭神として祀られています。
ここで注目しておきたいのが大来目命(おおくめのみこと)です。神武天皇の家臣だったと伝えられるオオクメは、記紀にみえる久米直(くめのあたい)の祖とされます。大和朝廷で軍事的役割を担った久米部。その出自は隼人系の海人とされ、「魏志倭人伝」に倭人の特徴として描かれた入れ墨をしていたことで知られます。
神武天皇のお后選びの際、三輪山麓に住むイスケヨリヒメを推薦した人物こそがオオクメなのです。
久米御縣神社の鳥居。
神武東征の際には、幾多の困難を神武天皇と共に乗り越えていった大来目命(オオクメノミコト)。
神武天皇即位後、その論功行賞として、畝傍山の西に当たる川辺の地を賜り「来目邑(くめむら)」と称しました。今でも久米御縣神社の門前には、この辺りが来目邑伝承地であることを示す石碑が建っています。
久米御縣神社の本殿。
神武天皇は橿原宮での即位後、新たに皇后とする娘を探していました。
大久米命を連れて野遊びに行った神武天皇。その向こうから、七人の乙女がやって来るのが見えました。オオクメはかねてより美人の誉れの高かったイスケヨリヒメがその中にいることに気付きます。ちなみにこのイスケヨリヒメは、三輪山に鎮座する大物主の娘に当たる姫神です。
さっそく和歌で、神武天皇にそのことを伝えるオオクメ。
神武天皇は、七人のグループの先頭に立っていたイスケヨリヒメを娶りたいとオオクメに伝えます。オオクメは天皇の仰せをイスケヨリヒメに伝えに行きます。この時に、大来目命の外見が一役買うことになります。
久米御縣神社の狛犬。
目にアイラインのような入れ墨をしていた大来目命。
イスケヨリヒメはオオクメの目を見て、不思議に思って歌を歌います。「飴色のセキレイ、チドリ、ホオジロのように、どうしてあなたは入れ墨をして鋭い目をしているのですか?」それに対してオオクメは答えます。「娘さんに会いたいと思い、目が裂けるほど見開いて鋭い目をしているのですよ。」
オオクメの当意即妙の答えが気に入ったイスケヨリヒメ。
神武天皇の求婚を快く受け入れ、三輪山の麓の狭井川の畔で二人は結ばれることになります。大神神社に伝わるささゆり伝説ですが、大来目命(オオクメノミコト)が見事にその橋渡しをしていることに着目してみたいと思います。
一時期は「久米寺鎮守の神」という位置付けにもなっていた久米御縣神社。
今はただひっそりと、紫陽花で人気の久米寺の近くに佇みます。参詣する人を見かけることもあまりない神社ですが、久米寺へ足を運んだなら、是非一度はお参りしておきたいお社です。