長谷寺の西の丘にそびえる五重塔。
そのすぐ南側に基壇と礎石のみが残される三重塔跡があります。
長谷寺の三重塔跡。
向こうに見えている建物は納骨堂ですね。初夏の風に煽られ、木々の緑がよく映えます。長谷寺創建にまつわる歴史は、道明上人と徳道上人の二段階に分かれますが、その最初の方の道明上人ゆかりの本長谷寺がすぐ傍にあります。この場所に三重塔が建っていたとは今は知る由もありませんが、案内板にのみその手掛かりを求めます。
祝融の災に遭った豊臣秀頼再建の三重塔
長谷寺三重塔跡の周りにはベンチが置かれ、参拝客が思い思いの時間を過ごしていました。
五重塔を仰ぎ見ながら写真に撮ったり、お弁当を広げて休憩なさっている方々もいらっしゃいます。三重塔跡の脇からは、丘の下へと続く階段があり、そこを下って行くと境内のお土産物売場へ辿り着きます。下りの階段途中で左手を見上げると、草木の隙間から朱色の五重塔が垣間見えます。
長谷寺三重塔跡の案内板。
慶長年間豊臣秀頼公によりて再建せられたるも・・・と記されています。此処は安土桃山時代の慶長年間に、豊臣秀頼によって再建された三重塔のあった場所とされます。
祝融の災と書かれていますね。
私はこの言葉を見た時、何かの戦火によって三重塔は焼失したのだろうか?と思ったのです。「祝融」という固有名詞だとばかり思っていたのですが、帰って辞書を調べてみると勘違いであることが判明いたしました。
祝融とは、中国において火を司る神を意味し、転じて火災や火事のことを表します。火災のことを「祝融の災」と表現するわけですが、長谷寺の三重塔は明治9年(1876年)の落雷により焼失しています。戦火ではなく、落雷がその原因だったようです。
おそらく避雷針など無かった時代ではないでしょうか。高い建築物に雷が落ちて、悲しいかな焼失してしまう。よくある事だったのかもしれません。雷の語源は「神鳴り」にあるとも言いますが、人の力ではどうすることも出来ない何かを感じます。
長谷寺五重塔。
東の丘の本堂(十一面観音立像)に対し、西の丘を象徴する五重塔。
長谷寺の五重塔は、昭和29年(1954年)に戦没被災者を慰霊する目的で建立されています。その内部には、ご本尊として大日如来が祀られています。人はその生まれによって守護神が決まっています。五黄土星の私の守護神は大日如来様とされます。宇宙の中心に居るとされる神様が、この中に安置されていると思うと不思議な親近感を覚えます。