天理に鎮まる石上神宮には幾つかの摂末社が祀られています。
石上神宮摂社の出雲建雄神社、天神社、七座社、そして石上神宮末社の猿田彦神社、神田神社、祓戸神社、恵比須神社がそれに当たります。境内のみならず、境内の外にも神様が祀られていますので、お時間に余裕のある方は足を伸ばしてみるのもいいですね。
出雲建雄神社の祠の前までやって来ると、運よく鶏が姿を現しました(笑)
楼門左右の廻廊も、この日は塗装工事中でした。
草薙剣の荒魂を祀る出雲建雄神社
楼門前の小高い丘の上には、延喜式内社の摂社・出雲建雄(いずもたけお)神社が鎮座しています。
出雲建雄神社と言えば、真ん中に馬道(めどう)を通した国宝の割拝殿が有名です。残念ながら参拝当日は修理中のためかシートが被せられていました。
出雲建雄神社。
鳥居向こうの本殿は一間社春日造。本殿前には桁行五間、梁間一間の立派な割拝殿が建っています。
出雲建雄神社の御祭神は、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)に宿る出雲建雄神です。草薙の剣の荒魂とされる神様がこの場所に鎮まります。大神神社の狭井神社の記事でもご紹介致しましたが、荒魂は新しい魂に通じます。出雲建雄神社の本殿前には、何かが生まれ変わる強いエネルギーが感じられました。
御祭神の出雲建雄神は、江戸時代には石上神宮祭神の御子神とされ、「若宮」とも呼ばれていました。春日大社や大神神社にも若宮さんが祀られていますが、石上神宮の若宮さんは出雲建雄神に当たるのでしょうか。
出雲建雄神の右手奥には、道祖神で知られる猿田彦神社が祀られています。
大神神社の若宮神幸祭では、お渡り行列の先頭を猿田彦が勤めます。道先案内人としての役割を持つ猿田彦。石上神宮の猿田彦神社は、明治10年に現在地に遷座した歴史があり、江戸時代には祭王御前・山上幸神などと呼ばれ、現在地より東方の山中に祀られていました。
こちらは天神社。
出雲建雄神社の向かって左奥に鎮座しています。
天神社には高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)の二座が祀られています。古事記における天地創造のシーンで登場する神様ですね。天上界の創造神である高皇産霊神と、冥界の創造神である神皇産霊神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と共に三柱の神(みはしらのかみ)と呼ばれます。三柱の神は、後に誕生した二柱の神と共に天上界でも特別な神様として別天つ神(ことあまつかみ)と呼ばれる存在です。存在と言ったら語弊があるかもしれませんね。別天つ神は姿を隠し、目には見えない尊い神様なのです。
天神社の右横に祀られる七座社(ななざしゃ)。
名前が示す通り、七柱の神様が祀られています。
天神社と七座社は石上神宮の鎮魂祭とも深く関わっており、その例祭は、毎年11月22日に鎮魂祭に先立って斎行されています。
重要文化財に指定される石上神宮の楼門。
楼門の歴史は古く、第96代後醍醐天皇の文保2年(1318)に建立されています。旅行ガイドブックなどでもおなじみの建築物ですが、鏡池のエピソードと同じく後醍醐天皇の時代のものなのですね。元来、鐘楼門として上層には鐘が吊るされていましたが、明治初年の神仏分離令によって取り外され、残念ながら売却されています。この楼門の下には、いつも御饌絵馬が掲示されています。月ごとに変わる御饌絵馬のことが気になっていたので、今月(5月)の御饌絵馬のデザインは何かな?と思って確認してみました。
5月は鯉のようです。
口と尾っぽを紐で縛られた鯉が、御膳の上で跳ねています。
普段から料理を作っている身として気付いたのですが、この鯉は右が頭になっています。通常鯛の尾頭付きなどは、「左頭」がお約束です。まぁどうでもいいことなのですが、少し気になったので記しておきます(笑)
ちなみに、6月の御饌絵馬のモデルは野鳥でしたね。
御田植神事の舞台にもなる神田神社
石上神宮の第三駐車場の南側に、境外末社の神田神社が鎮座しています。
神田神社と書いて、「神田(こうだ)神社」と読みます。神剣渡御祭の当日の御田植神事が行われる場所でもあります。
楼門前から下って、再び石上神宮の社号標の建つ場所まで戻ります。
石上神宮の周辺地図がありました。
山の辺の道、天理教教会本部、それに前方後方墳の西山古墳なども案内されています。
神田神社。
この日は、神社の手前にも多くの車が停まっていました。石上神宮から道を挟んだ所に鎮まる神様です。
御祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。
高倉下は神武天皇東征の際、霊剣をもたらした神話上の人物です。神ではなく、人であるとも伝えられる高倉下(たかくらじ)。
神武天皇の御一行が熊野から大和を目指していた時、神の毒気にあたり、皆体が萎えてしまいます。その時、高倉下の夢枕に天照大神と武甕雷神(たけみかづちのかみ)が立ち現われ、武甕雷神が所持する霊剣・韴霊剣(ふつのみたま)を高倉下に下賜しようとのたまいます。夢から覚めた高倉下は、教えのままに霊剣の置かれた蔵を開いてみると、剣が床に突き刺さっていました。この剣を携えて高倉下は神武天皇の元を訪れます。霊剣を手渡すと、神武天皇の御一行は皆元気を取り戻したと伝えられます。
神田神社の烏帽子岩。
祠の手前に謎の石造物が置かれていました。
往古より珍重されている布留川で採れる石のようです。
この烏帽子岩には、布留の謂れの逸話にも出て参りましたが、川の上流から流れて来る剣の話とよく似た話が伝わります。布で剣を手にし、石上神宮に奉納した正直者のお婆さんのことを羨んだ欲張りのお婆さんが居たそうです。同じように朝早くから、川の畔で流れ来る宝物を待っていた欲張りのお婆さん。すると、川上から烏帽子や冠が流れてきたではありませんか。お婆さんは素足になって川の中に入り、流れてくる烏帽子や冠を拾いました。やがて夜が明け、白日の下によく見てみると、それは烏帽子や冠ではなく、そのような形をした岩だったというのです。ちょっとした笑い話ですね(笑)
確かに烏帽子に似た形をしています。
欲張りな人への戒めとして、境内の外に置かれているのかもしれません(笑)
こちらは「布留の恵比須さん」と呼ばれる恵比須神社。
事代主神が祀られる石上神宮の境外末社です。
でんでん祭の時にも、この神社の前を通ります。大鳥居から100mほど離れた場所に鎮座しており、恵比須神社の前には天理教の詰所があります。
恵比須神社の祠。
創祀については不詳のようです。しかしながら、江戸時代元禄年間の記録には、既に 「戎宮」 「恵比須殿」 と見えます。 例祭は毎年3月23日に斎行されます。
恵比須神社の案内板が立っていました。
恵比須神社の名にふさわしく、商売繁盛・家内安全の守護神として広く尊崇を集めています。
出雲建雄神社割拝殿の写真
後日、石上神宮の境内へ足を運んで参りました。
無事に工事も終了しておりましたので、ここに出雲建雄神社割拝殿の写真をご案内しておきます。
国宝・出雲建雄神社割拝殿を見下ろします。
間口の広い建築物ですので、真正面から全体像を切り取るのは少し困難(笑)
斜めのアングルから失礼致します。
向こうに見えているのは、石上神宮の楼門です。
馬道を正面から撮影。
歴史を感じさせる建物ですね。
かつては52の伽藍が建ち並び、その栄華を極めた内山永久寺の建物が、今はこうして石上神宮境内に移されています。
大寺院・内山永久寺は、永久年間に鳥羽天皇の勅願によって創建されたお寺です。その年号にちなんだ名前だったわけですが、「永久」という名がどこかむなしく聞こえてきます。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、永久寺の僧たちは還俗させられて石上神宮の神官となります。廃寺となった内山永久寺の所有物や寺地は競売に出されたと伝わります。
競売当時の割拝殿に付けられた値は75円だったそうです。
お金の価値が変わっていることを踏まえた上でも、二束三文で売り払われたことに違いはありません。時代は移り、国宝建築物として多くの参拝客の視線を釘付けにしています。