奈良市指定文化財の西大寺鐘楼。
華やかな三手先組物を用いた建築物で、兵庫県川西市の多田神社より移築されているそうです。奈良県内でも興福寺五重塔など、名だたる建築物に見られる三手先組物。そんな素敵な意匠が鐘楼に施されているとは、これは意外な発見でした。
三手先組物が映える西大寺鐘楼。
軒下や縁の下にも見事に組まれています。ほとんどの部材に ”解体時の番付” が残されているそうです。一度解体して持ち運び、再び組み上げられたことが分かります。
清和源氏発祥の多田神社から移築された鐘楼
それにしても、なぜ兵庫県の多田神社から移されたのでしょうか?
西大寺と多田神社の関係は鎌倉時代に遡ります。
鎌倉時代に行われた多田院修造の際、勧進聖として命ぜられたのが叡尊の弟子・忍性でした。西大寺の歴史は中興の祖である叡尊上人抜きには語れません。今も愛染堂内に生き写しの肖像彫刻(国宝)が祀られていることからも、その重要性がうかがえます。西大寺が最も敬意を払う叡尊の弟子が、多田院の勧進聖の任に当たったのです。
さらに、多田院の本堂完成を祝う曼荼羅供養では叡尊上人が導師を務めています。
節分会の幟と鐘楼。
参詣当日には西大寺の豆まき行事が催されました。
下から見上げると、覆い被さるように本瓦葺の屋根が広がっていますね。
鐘楼の手前に歌碑が建立されていました。
西大寺を創建した孝謙天皇(称徳天皇)の歌のようで、「道鏡を守る会」と記されていました。なぜにまた道鏡を?その謎を解く鍵は西大寺創建にあります。
東の東大寺に対する西の西大寺。
西大寺建立のいきさつには、東大寺への対抗心があったとも伝えられます。東大寺建立には聖武天皇と光明皇后が関わっていました。そして、その娘に当たる人物こそが孝謙上皇(後に重祚して称徳天皇)だったのです。
鐘楼の向こう側に、大茶盛式が行われる光明殿を望みます。
時折しも、西大寺発願の天平宝字8年(764)9月11日は藤原仲麻呂(恵美押勝)謀反の日でした。聖武天皇に重用されていた仲麻呂でしたが、孝謙上皇は藤原氏の政敵である僧・道鏡を寵愛しました。これに危機を覚えた仲麻呂が反乱を起こすことになったのです。
謀反を知った孝謙上皇と道鏡は、聖徳太子の四天王寺建立に倣って、四天王像を祀るお寺を建立することになりました。これこそが、西大寺の起源とされます。かの聖徳太子も四天王の守護の元、物部氏を討つことに成功しました。四天王のご利益は立証済みだったというわけですね。
藤原氏の勢力下にあった東大寺。
その東大寺に対抗する目的で建立されたのが西大寺だったのかもしれませんね。
孝謙天皇
此里者 継而霜置哉 夏野祢 吾見之草波 毛美知多里家利
豊幸書
うん?漢字ばかりで何のことだかよく分かりません。
嚙み砕いたバージョンもありました。
この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり
道鏡を守る会
西大寺の歴史に色濃く影を残す僧道鏡。
称徳天皇の権力の象徴でもあった西大寺。そこからは、鎮護国家の寺をめぐる親子間の錯綜も垣間見えます。
今も多田院の別当は、西大寺読師(僧職の一つ)の中から選ばれています。お互いの交流は続いているようですね。
多田神社には清和源氏同族会という組織があります。
源氏の祖廟である多田神社にちなんで結成されているようです。組織の紋も笹竜胆で、西大寺の寺紋と重なります。
最後に気になったのですが、西大寺の鐘は普段撞くことができるのでしょうか?除夜の鐘は撞けるようですが、美しい鐘楼で撞く鐘の音色を想像してみます・・・。