石舞台古墳の天井石をも上回る一枚岩。
そんなスケールの大きい天井石を持つ横穴式石室が、橿原市の白橿町に開口しています。巨大な天井石を持つ小谷古墳ですが、沼山古墳や益田岩船からも徒歩圏内に位置しています。墳丘の流出が激しいために墳形は未だ不明ですが、方墳、あるいは円墳であったと推測されています。
小谷古墳の横穴式石室。
花崗岩の切石を二段積みにした両袖式の横穴式石室。玄室の天井石が一枚構成で、石舞台古墳を上回ります。小谷古墳の周囲には鉄柵が巡らされ、石室の中に入ることはできませんでした。近所の方のお話では、昔は石室インすることも出来たようですが、現在は遠目からの見学のみとなります。
一段高い玄室床面に安置される家形石棺
小谷古墳の玄室内には石棺が残されています。
既に盗掘に遭っており、棺の蓋は開いたままで傾いた状態になっています。石棺には兵庫県の播磨付近で採取される竜山石(たつやまいし)が使われているようです。かなり急斜面に開口しているため、石室見学の際は足元に注意が必要です。足を滑らせないように気を使いながら石室の横へと回り込みます。
小谷古墳横穴式石室の開口部横側。
石舞台古墳の天井石を凌駕するという巨大な天井石ですが、この右側にあるはずです。ところが、玄室に近い奥の方は鬱蒼としていて侵入が拒まれているようでした。目の前にあるのは石室入口近くの石ですが、かなり大きなものであることが分かります。
県指定文化財(昭和52年5月20日)の小谷古墳が案内されています。
この古墳は、貝吹山から北東に延びる尾根の先端に築かれた、前方後円墳を含む8基の古墳群のなかにあり、その東端部に位置します。
古墳は尾根の南斜面に築かれており、墳丘の背面は幅20m・直径50mにわたって半円状に切り取られています。古墳の形状は、封土の大半を失っており不明ですが、円墳あるいは方墳であったと考えられています。
墳丘の規模は、30m前後で高さは約8mです。埋葬施設は、巨大な花崗岩の切石を二段に積み上げた両袖式の横穴式石室です。玄室の天井石は一枚からなり、石舞台古墳の天井石よりも巨大なものです。また、石積みの間には漆喰が使用されています。規模は全長約11.6m、玄室長約5m、幅約2.8m、高さ約2.7m、羨道部は長さ約6.45m、幅1.9m、高さ約1.8mを測ります。
玄室の床面は羨道よりも一段高くなっていますが、これは明日香村の岩屋山古墳と共通する特徴です。玄室には凝灰岩の刳抜式家形石棺が盗掘により蓋が開いた状態で安置されています。棺身は長さ2.4m、幅1.16m、高さ0.82mで、棺蓋は縄掛突起がなく緩やかな傾斜の蒲鉾形を呈するもので、家形石棺の中でも新しい型式のものです。副葬品は未調査のため不明ですが、石室や石棺の型式・規模から終末期の古墳と考えられています。この古墳の被葬者は、天皇家を含めた有力氏族であったとの見方が有力で、江戸時代には斉明天皇陵に比定されていたこともあります。
橿原市教育委員会の詳細な解説の中に、一時は斉明天皇陵に比定されていた時期もあったことが記されていますね。現在は明日香村越にある八角形墳・牽牛子塚古墳が斉明天皇陵だとする説が有力ですが、当時はこの巨石を使った古墳にも注目が集まっていたようです。
それではここで、小谷古墳へのアクセス方法をご案内致します。
小谷古墳のある場所は住宅街が迫る急傾斜地です。橿原ニュータウンの宅地造成により、周囲は区画整備された住宅街が広がっています。
小谷古墳の行き方とアクセスルート
私は今回、橿原市観光協会刊行の「謎の巨石と古墳めぐり」という冊子を手に小谷古墳を目指しました。
沼山古墳と益田岩船を見学した後、進路を北へと取ります。しばらく歩いて行くと、左手に鳥屋南児童公園が見えて参ります。ここが重要なアクセスポイントになっていますので押さえておきましょう。鳥屋南児童公園の手前を左折して、住宅街の中の緩やかな坂道を登って行きます。
鳥屋南児童公園。
公園の片隅には鳥屋南集会所もありますので、比較的分かりやすいと思います。益田岩船方面からだと、この公園の ”手前” を左折するというのが重要ポイントです。
小谷古墳の周辺地図。
周辺マップでも、そのルートをご確認頂けるものと思われます。益田岩船はこの地図の左方向にあります。上手の方に小谷古墳が案内されていますね。
公園の手前を左折して、緩やかな坂道を登って行きます。
この辺りの住所は橿原市白橿町4丁目12のようです。行く先に丁字路が見えていますね。
丁字路に突き当たって、右方向に目をやると・・・ありました、ありました!
この写真だとちょっと分かりづらいですが、肉眼ではっきりと小谷古墳の突き出た石室を確認することができます。植え込みの生垣の向こうに、丘陵部へと続く石段がありました。こうやって見ると、かなり人気(ひとけ)の感じられる場所に存在していることが分かります。車でもここまでならアクセスできるのではないでしょうか。
民家の石垣を右手に見ながら、小谷古墳へと近づいて行きます。
玄室の高さこそ沼山古墳にも及んでいませんが、あの石舞台古墳の天井石をも上回る規模だと言います。巨大古墳の比較対象によく名前の挙がる石舞台古墳ですが、つい先日訪れた天理市の塚穴山古墳は記憶に新しいところですね。
いよいよ胸の高鳴りを覚えます。
ここもちょっと間違えやすいポイントです。
三つに進行方向が分かれている三叉路。真ん中のルートに階段が付いていますが、丘陵部なのでここを上がっていくのかなと思うのですが、正解ルートは階段手前の右側畦道を進みます。
ここを進んで行きます。
あとは道なりに進んで行けば、左手上方に飛び出すような格好の石室が見えて参ります。
水仙の花が出迎えてくれました。
左後方に柵が見えていますが、あれが小谷古墳の横穴式石室です。
純粋に古墳見学という点では、少し寂しい印象を受けてしまいますね。
ぐるりと鉄柵に囲われています。まるで動物園の檻にでも入れられているような・・・。辺り一面が落葉に覆われ、足元はフカフカした感触です。これなら少々転んでも怪我はしないだろうなと頭をよぎります(笑)
柵の隙間から開口部を撮影。
私は今、急斜面に立っています。左手で鉄柵を持ちながらの撮影です(笑) 誠に残念ながら、角度的に言って石室の中の様子は分かりません。縄掛突起の無い家形石棺が安置されているようなのですが、その棺を写真に収めることはできませんでした。
小谷古墳の家形石棺の蓋は蒲鉾型をしています。蒲鉾型ということは、石棺の頂部平坦面の面積が広いことを表しています。橿原市の橿考研博物館では、家形石棺の移り変わりが常設展示されています。小谷古墳は終末期古墳に分類されるようですので、石棺の形からも納得の見解ですね。
橿原市教育委員会の注意書きですね。
「この近くで遊んではいけません」と書かれています。場所が場所だけに、ひょっとすると落石の恐れでもあるのでしょうか。
柵の傾斜を見れば、その角度が想像できるでしょう。
石室の中こそ見学できませんが、なかなかのスリルは味わえます。
亀裂が入っているのでしょうか。
石と石の間には隙間も見られますね。
太陽光が差し込みます。
羨道は基本的に一段積みで、奥の玄室は二段積みの構成です。玄室の一段目は垂直に、二段目は内側に傾いているようです。そして、その巨石の隙間には漆喰が詰められています。
実に堂々とした石室です。
どうだ!と言わんばかりに突き出しています。遥か下界の人々にも見えるように、敢えてこの場所を選んだかのように存在しています。まるでステージの上に居るかのような偉容を誇ります。
実は小谷古墳の南方には、小谷東古墳という古墳があるようです。
双墓の可能性も指摘されていますが、古墳好きにとっては興味深いところですね。
角度を変えて。
ちょっと遠くなった感じ(笑)
でも、振り返れば景色は綺麗でした。
眺望の開けた場所で、小谷古墳の被葬者は何を想うのでしょうか?まさか封土が無くなって剥き出しになるとは思っていなかったでしょう。ましてや盗掘されることも計算には入っていなかったでしょう。今はこうやって、住宅街や畑を見下ろしながら静かに佇んでいます。
羨道より一段高いという玄室内。
優美な切石で知られる明日香村の岩屋山古墳との共通点も見出されます。岩屋山古墳は近鉄飛鳥駅にも程近く、石室の中に入ることも許されています。今も数多くの観光客が石室体験を楽しんでいることでしょう。それに比べ、こちらの小谷古墳は厳重に立入りが禁止されています。
小谷古墳の帰り道。
杭にロープが張られ、小谷古墳へのルートが確保されていますね。
住宅街の中に突如現れる古墳。
小谷古墳へのアクセスは、近鉄吉野線岡寺駅から徒歩10分となっています。小谷古墳見学の際は、岡寺駅前の牟佐坐(むさにいます)神社、さらには沼山古墳、益田岩船、岩椋(いわくら)神社等へもあわせて訪れることをオススメ致します。