奈良市の海龍王寺は写経発祥の寺としても知られます。
海龍王寺の開基・玄昉は般若心経の講釈に熱心であったと伝えられます。そのため、海龍王寺に於いて般若心経の写経が盛んに行われていたようです。写経と海龍王寺、意外な結び付きに思えるかもしれませんが、奈良の歴史の深さを改めて思い知らされます。
海龍王寺経蔵。
道路に面した山門をくぐり、静かな参道を歩きます。
拝観受付にはご住職が座っておられました。軽く挨拶をして拝観料を納め、左手に歩を進めると姿を現すのが経蔵です。湿気対策なのでしょうか、高床式の造りになっています。
写経の原本「隅寺心経」
写経を体験したことのある人なら誰しも、般若心経のことはご存知ですよね。
巷で行われている般若心経写経の手本のほぼ全てに、海龍王寺現存の「隅寺心経(すみでらしんぎょう)」が使われています。般若心経写経の本家本元・原本に当たるお経こそが、隅寺心経なのです。
そもそも、隅寺とは何を意味しているのでしょうか。
それは海龍王寺のある場所に起因しています。平城京の北東隅に位置しているから「隅寺」なのです。隅寺、隅院とも呼ばれていた海龍王寺ですが、国宝の五重小塔や鎌倉時代の華麗な色彩を持つ十一面観音立像など、見所の多いお寺でもあります。
海龍王寺の写経所。
西金堂の右手奥に佇む、最近建てられたばかりの写経所です。
奈良時代には、平城京内における仏教道場の役割も果たしていた海龍王寺。写経発祥の寺でありながら、これまで境内には専用の写経道場がありませんでした。2015年(平成27年)にめでたく竣工しています。
経蔵前にはアザミの花も咲いていました。
海龍王寺は天平3年(731)、光明皇后の発願により、その父・藤原不比等の邸宅の一郭に建立されました。不比等亡き後、娘に当たる光明皇后が邸宅を相続し、海龍王寺の歴史がスタートを切ることになります。
海龍王寺の境内からは、飛鳥時代末期に遡る古代瓦が出土していると言います。
藤原不比等の邸宅内にあったわけですが、実はそれ以前からこの地に存在していたものと思われます。海龍王寺の本堂内配布の漫画案内によれば、既に飛鳥時代に創建されていた寺院であることが分かります。その冊子によれば、この辺り一帯を治めていた土師氏の氏寺であったと案内されています。
土師氏という名前からは、古墳との関係も見え隠れしてきますね。海龍王寺の北方には、ウワナベ古墳・コナベ古墳があります。箸墓古墳の名前の由来にも、土師氏の存在が指摘されています。
重文の一切経蔵(鎌倉時代)。
正応元年(1288)建立
室町時代と、寛永7年(1630)年に修理が行われ、昭和40年~42年にかけて解体修理が行われました。経典や文書を納めたことから、高床式の建物になっています。
この経蔵には以前、御本尊として弥勒菩薩像が祀られていたこともあったそうです。
寄棟造・本瓦葺の造りで、大仏様の影響を受けながらも、一部には禅宗様も取り入れられた魅力的な建造物です。
海龍王寺の開基・玄昉は、隣国の唐から持ち帰った一切経を海龍王寺で書き写したと伝えられます。これが日本における写経の始まりであり、海龍王寺が写経発祥の寺と言われる所以です。
かの弘法大師空海も、渡唐の無事を祈願して般若心経一千巻を海龍王寺に納経しているそうです。
海龍王寺本堂。
この本堂は1666年に建立されています。
本堂内には御本尊の十一面観音立像(鎌倉時代)が安置されています。昭和30年(1955)まで秘仏だったため、その美しい色彩を今に留めています。本堂向かって左手には、国宝・五重小塔を収める西金堂が佇みます。
本堂内で無料配布されていた『海龍王寺のスゴイところ』。
漫画仕立てで、海龍王寺の歴史が分かりやすく案内されています。
私もご多分に漏れず写経を体験したことがありますが、不思議と心が落ち着くのを覚えます。
なぜでしょうか?
お経は声に出したり、書き写したりして咀嚼していくものなのかもしれません。ゆっくりと時間を掛けて、その場その時の心情に任せてこの身を委ねます。
本家本元の海龍王寺で、写経を体験してみたい気にもなりますね。
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