唯円の終焉地です。
親鸞聖人の直弟子・唯円大徳(ゆいえんたいとく)。元は常陸国(現茨城県)の人だったようですが、そのお墓が吉野郡下市町にありました。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」の一節で知られる歎異抄の著者ですね。
立興寺の本堂。
恵日山立興寺(えにちざんりゅうこうじ)は、鎌倉時代中期の建治(けんじ)年間に創建されています。後宇多天皇の御代に当たり、開基は唯円大徳です。既に常陸国で教化活動中だった唯円に白羽の矢が立ち、この地にやって来ることになりました。
立興寺は浄土真宗本願寺派です。本堂の外観は異国情緒を漂わせ、どこか黄檗宗を思わせますね。
身替わりの名号を拝観!唯円大徳の墓所
細長い車道の両脇に民家が建ち並ぶ下市町。
天川村や黒滝村へ抜ける際、何度も通った道です。下市町で観光するにも、どこで駐車すればいいのか分かりませんでした。今回は明快な回答を得ました。朝市で賑わう下市観光文化センターです。小学校近くの下市観光文化センター駐車場がおすすめです。かなり広い無料駐車場でした。
立興寺山門。
寺号標に「唯円大徳旧跡」と刻みます。
この日のお参りで、ご住職に色んなお話を聞かせて頂きました。唯昭さんとおっしゃるご住職で、“昭和”にちなんでいるようです。この場を借りて御礼申し上げます。
本堂欄間の意匠。
ご住職によると、親孝行の物語を表しているようです。中国の『二十四孝』をモチーフにしています。二十四孝(にじゅうしこう)とは、後世の垂範として、孝行者の24人を採り上げた書物です。親孝行のお話は、古今東西を問わず人の心を打ちます。
黄金の蟇股の中に、夫婦らしき人物と乳飲み子が彫られていますね。調べてみると、郭巨(かくきょ)の孝行話のようです。絵心のあるご住職で、欄間上部の天女も描かれたのだとか(^O^)
下市観光文化センター。
国道309号が一旦右へ折れる手前に位置しています。広々とした駐車場を後にし、楽しみにしていた下市町巡りに出掛けました。
下市小学校ですね。
緩やかな坂道を下り、秋野川に架かる学校橋を渡って旧市街地へと入ります。
立興寺の駐車場。
しばらく千石橋方面を目指し歩いていると、右手にお寺らしき建物が見えてきました。
唯円ゆかりの立興寺です。下市町界隈には、浄土真宗本願寺派の法灯を掲げるお寺が散在しています。「下市御坊」と呼ばれる願行寺(がんぎょうじ)を筆頭に、広くその教えが浸透しているようです。
右手前の石標に「二十四輩」と刻みます。
親鸞の24人の高弟を二十四輩(にじゅうよはい)と呼ぶようです。唯円は親鸞聖人の晩年の弟子と伝わります。現在の茨城県水戸市(常陸国河和田)に住んでいたことから、「河和田の唯円(かわわだのゆいえん)」と称されるようです。
立興寺の前庭。
茨城県に居た頃の唯円はやんちゃだったようです。
それに引き換え、とても信心深かった唯円の妻。聖人直筆の名号(みょうごう)まで下賜されるほどの篤信ぶりだったと言います。
「身替わりの名号」ゆかりの絵。
信心深い妻が足繁く詣でるのを見た唯円は、あろうことか浮気を疑います。妻を待ち伏せして斬りかかり、殺めてしまった唯円・・・喜び勇んで帰った唯円でしたが、何事も無かったかのように生きている妻に驚きます。驚いた妻は、隠していた名号を取り出します。するとどうでしょう、名号が斬られていたというではありませんか。まさに身代わりになってくれた名号・・・これを機に改心した唯円は、その後の人生を歩んでいくことになります。
斬り掛かろうとする唯円。
この時点では、なんとも罰当たりですね。
ご住職のご厚意により、立興寺に伝わる「身替わりの名号」を見せて頂きました。
南無阿弥陀仏の六字名号だったかと思いますが、確か「無」の部分がスパッと斬られていました!妻を斬ったという刀も横に置かれ、改めて感じ入った次第です。
下市町指定文化財 親鸞聖人画像(立興寺) 絹本著色
寺伝によると、この画像は文明年間蓮如上人より下賜されたもので、本願寺の嘯(ウソブキ)の御影を写したものであるという。礼盤上に斜座した聖人の姿は、墨染の衣の襟元から白襟巾を見せており、肖像画として、高僧の風貌を伝えるすぐれた筆致を示している。礼盤の三狭間や飾金具から見て室町時代の作とされている。
立興寺は親鸞聖人二十四輩の一人であり、歎異抄の真の著者といわれる唯円大徳の開基とされる寺で、この唯円のものと伝えられる墓が境内墓地に現存している。
蓮如上人から賜ったという「立興寺」の寺号。
お寺の名前と共に、親鸞聖人の御真影「左上の御影(さじょうのみえい)」が下賜されました。念珠を持つ手が、通常とは異なり“左手が上”になっていることから、左上の御影と言うようです。
嘯(うそぶき)の御影って何だろう?と調べてみると、どうやら口をおちょぼ口にした親鸞像ということのようです。「嘯(うそぶ)く」とは、とぼけて知らんぷりをすることです。どこか滑稽ですね、ご高齢で飄々とした境地に達しておられたのでしょうか。
高さのある礼盤(らいばん)。そこに格狭間(こうざま)の装飾が入り、いかにも徳の高いお方の座という感じがします。
本堂の脇から唯円のお墓を目指します。
本堂裏の高所に祀られているようです。
行く手に見える階段を上がります。
高校時代の日本史で習った唯円の歎異抄。吉野の地で最期を迎えられたとは知りませんでした。
本堂の屋根。
秋野川の向こう岸からも見えている瓦屋根です。
おっ、あれが唯円の墓所ですね。
唯円大徳の墓碑銘。
「開基唯圓法師墓」と刻みます。68歳でお亡くなりになられているようです。
岩場に建つ墓石。
薄い形状の片岩があちこちに見られました。
吉野山は片岩で出来ていると言いますが、この辺りの地盤も片岩なのでしょう。吉野川流域の古墳に見られる石材は、概ね緑泥片岩ですからね。
う~ん、さすがに読み取れません。
でもその分、歴年の重みを感じさせます。
向こうに見える大屋根は、同じく浄土真宗本願寺派の願行寺です。
立興寺と願行寺の間には秋野川が流れています。
幾重にも層を成す片岩。
この岩肌を見ると、ここが吉野だと実感します。
立興寺本堂。
山号を掲げる扁額と、煌びやかな欄間。経年劣化で黒ずんでいたものを、ご住職が心を込めて磨かれたようです。見事に蘇っていますね。
こちらにも孝行ストーリーが彫られていました。
話の内容は割愛しますが、冬季に出てくるはずもないタケノコが“にょきっと”出た様子です。
唯円大徳坐像
内陣左奥の厨子に納められていました。
御前に座らせて頂き、手を合わせます。念珠を手にする唯円像は、右手が上ですね。立興寺に伝わる唯円坐像を拝ませて頂き、大変有意義な一日となりました。
ご住職の御心が反映された本堂内。
有難い空間に身を置かせて頂き、歎異抄の唯円と向き合います。悪人正機を説く浄土真宗の教えは、阿弥陀仏の目から見れば、衆生は皆悪人とします。人は愚かです。その自覚を持って、初めてスタートラインに立つことが出来るのでしょう。
立興寺から千石橋方面へ向かうと、「小さな駅 札の辻ステーション」がありました。
下市町名産の割箸や神具が売られています。軽食スペースもあり、ここで一息付くのもいいですね。
「BAKE HOUSE」を掲げる札の辻ステーション。
淹れ立てのコーヒーも飲めるようです。
この後、商店街入口近くの「おけ常」さんで日替わりセットを頂きました。吉野川沿いを東へ歩き、岡峯古墳、いがみの権太の墓と巡ります・・・