美しい石畳の階段!車木ケンノウ古墳@高取町車木

皇極・斉明天皇陵に比定(ひてい)される車木ケンノウ古墳。

現在は明日香村の牽牛子塚古墳を斉明天皇陵とする説が有力ですが、宮内庁は車木の丘陵上にある円墳を斉明天皇の墓と治定しています。古墳の呼び名は幾つかあり、車木天皇山古墳斉明天皇越智崗上陵とも称されます。

車木ケンノウ古墳

美しい石段を登って行きます。

麓から九十九折りの石段を5~6分登ると、左手に車木ケンノウ古墳の瑞垣が見えてきます。

直径約45mの円墳とされますが、陵墓測量図から中心部分のみを墳丘と見ると、直径わずか17mの円墳です。天皇陵にしては、とても小さな古墳です。これは薄葬思想の影響なのでしょうか。

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兵庫から越智崗上陵へアクセス

車木ケンノウ古墳の行き方をご案内致します。

高松塚古墳から真弓の丘を越え、カンジョ古墳の前を通り「越智」丁字路へと差し掛かります。角にはコンビニがあり、ちょうどいい目印になっています。そこの丁字路を左折し、曽我川を右手に見ながら道なりに進んで行くと「兵庫」という交差点に辿り着きます。

アクセスポイントの兵庫を左折し、車木の集落の中へと入って行きます。

斉明天皇越智崗上陵

車木ケンノウ古墳(車木天皇山古墳)。

地元では古くから「天皇山」と呼ばれていたようで、その呼称がそのまま使われています。天皇陵でよく目にするバツ印の扉が結界を張っていました。秋に訪れれば、綺麗な紅葉に出会うこともできます。

車木天皇山古墳の水仙

丘陵麓の華厳寺近くに咲く水仙。

花の少ないこの時期に開花する水仙はひと時の癒しですね。

車木天皇山古墳のコンクリート柱

車木ケンノウ古墳の墳丘を囲うコンクリート柱。

堅固な柱がお墓の周りを巡ります。本来は一周できるのかもしれませんが、私が訪れた時は一部にブルーシートが掛けられ立ち入り禁止になっていました。外周の脇には光雲寺の道標が立っており、どうやら裏山で繋がっているようです。今回は時間が無かったので光雲寺への山道は辿りませんでしたが、次回の楽しみに取っておきましょう。

車木の道標

交差点「兵庫」にあった車木の道案内。

兵庫(ひょうご)?やはりこの地名は武器庫を意味しているのでしょうか。歴史資料を紐解いてみると、『孝徳紀』大化元年条に

辺国(ほとりのくに)の近くに兵庫(つわものぐら)をつくって刀(たち)・甲(よろい)などを収め集めた

と記されています。孝徳天皇は第36代天皇に当り、重祚した第35代皇極天皇と第37代斉明天皇の間に位置しています。皇極と斉明は同一人物であり、車木ケンノウ古墳の被葬者とされます。そう考えると、時代的にも合致しますよね。この場所に武器庫があったのかもしれません。

車木ケンノウ古墳のアクセスルート

道案内に沿って真っすぐ進むと、道が二手に分かれていました。

カーブミラーの下に案内板が付いていますが、ここを右折します。

斉明天皇越智崗上陵

斉明天皇越智崗上陵。

ちなみに車木(くるまき)という地名ですが、斉明天皇との関係が見え隠れします。

蒲生君平の『山稜志』によれば、

斉明帝の葬に其の霊車の来り止まる所、因りて名づけて車来といふ。

と記されています。江戸時代の儒学者が里人の言い伝えを残す形で、車木の地名由来に触れた箇所です。斉明天皇を葬送する霊車が来て、この場所に止まった・・・車が来た「車来」から車木になったとする説です。

あるいは曽我川の曲流地を表すクルベキが訛ったものとする説もあるようです。古語の世界には、クルクル回ることを意味する「転(くる)べく」という動詞があります。そこから「クルベキ」という言葉が派生しているわけですが、果たして真相やいかに。

車木ケンノウ古墳のアクセスルート

右折すると、丘陵へ続く一直線の道が現れます!

いいですね、この感じ。いかにも迎えられているような一本道です。

車木ケンノウ古墳の駐車場

手前まで来ると、右手に駐車場がありました。

舗装こそされていませんが、天皇陵のために設けられた駐車場です。もちろん、駐車料金は無料です。

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華厳寺、八幡神社、大田皇女の墓へお参り

目的の車木ケンノウ古墳へ辿り着く前に、三つのお立ち寄りポイントがありました。

順番に列挙すれば、黄檗宗の華厳寺、八幡神社、天武天皇妃大田皇女越智崗上墓と続きます。神社にお寺に天皇陵と、あらゆるものが揃っていました(笑)

車木ケンノウ古墳の石段

車木ケンノウ古墳へ至る石段。

美しく整備された石段が丘陵の頂へと続いていました。

おや?左手に何やらお堂が建っていますね。

華厳寺本堂

華厳寺本堂。

鰐口の下方に堂内を覗く穴が開いていました。中には仏像が祀られており、ここがお寺であることをうかがわせます。

華厳寺案内

華厳寺の案内。

本堂と庫裏のみの寺院です。(黄檗宗)天王山「華厳寺」です。由緒沿革は定かではありません。

創建は本堂に安置される阿弥陀如来の裏書にある寛文13年(1673)

本尊:木造薬師如来坐像

寺蔵の喚鐘に「元禄13年(1700)」の銘が有ります。本堂再建の棟札に安永2年(1773)と有るそうです。延享5年(1748)の鰐口が有るそうです。 所在地:高市郡高取町車木284

車木ケンノウ古墳の石段

立派に組まれた石垣が、そのまま階段になったかのような造りです。

天皇陵の見学は、概して見所もなく観光客からは不評を買うこともあります。しかしながら、この美しい石段を踏みしめるだけでも十分に価値がありそうです。車木ケンノウ古墳は石段を登るために行く。そんな動機付けでもいいのではないでしょうか。

行く手に右方向の石段が見えていますが、中腹の八幡神社へと通じています。

大田皇女の墓

しばらく登って行くと、大田皇女の墓が見えてきました。

車木ケンノウ古墳の下手、南側に位置しています。

大田皇女の墓

大田皇女は天智天皇の皇女で、天武天皇の妃に当たる人物です。

つまり、祖母が斉明天皇という血筋ですね。

こちらも古墳の形は円墳です。

陵墓測量図によれば、直径約20mとされます。横穴式石室を持つ円墳で、車木谷口山古墳とも呼ばれています。

現在の学説では、牽牛子塚古墳のすぐ傍で発見された越塚御門古墳こそが大田皇女の墓として有力視されています。被葬者を特定するのはなかなか難しいことですが、宮内庁はここを大田皇女の墓として管理しています。

斉明天皇陵

斉明天皇、間人(はしひと)皇女、建王を葬る「斉明天皇越智崗上陵」。

わずか8歳で夭逝したという建皇子(たけるのみこ)も合葬されているようです。天智天皇の皇子で、斉明天皇からみれば孫に当たります。斉明天皇がこの上なく可愛がっていた皇子です。天皇自身が死んだ時は、この子と一緒に葬っておくれとまで言づてしていたそうです。

斉明天皇陵

斉明天皇陵の右手が立ち入り禁止になっていました。

ひょっとすると、近くで崖崩れでもあったのでしょうか。

下手の八幡神社に詣でた際も、崖崩れを修復した跡が見られました。古文書にも越智山稜の崩壊が度々記されているようですが、この辺りの地盤の弱さを物語ります。

車木ケンノウ古墳の石段

美しい模様を描く石段。

まるで城壁のような階段を伝って、斉明天皇陵にお参りします。

車木ケンノウ古墳の石段

今の時期は、この石畳が唯一の見所と言ってもいいでしょう。

堅固な要塞を思わせます。

桜井市の舒明天皇陵なども八角形をしていますが、天皇陵には八角墳が多く見受けられます。その点、車木ケンノウ古墳は円墳です。比較的身分の低い、凡人を葬る墓と言ってもいいでしょう。斉明天皇は息子に当たる天智天皇にある遺言を残しています。「万民を憂いめぐむために、石槨の役(えだつ)を起こさず」と・・・つまり、大規模な埋葬にならないように配慮していたというのです。

車木ケンノウ古墳のコンクリート柱

円墳を囲うコンクリート柱。

車木ケンノウ古墳の周囲を巡ります。ぐるりと古墳の周りを歩くことができるようです。

斉明天皇は土木工事に邁進したことで知られ、その重労働から「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と誹謗されました。一般庶民からの批判を受けた過去が、自身の薄葬へとつながったのでしょうか。

車木ケンノウ古墳

途中で行き止まり。

ロープの先にはブルーシートが被せられています。

その左手前に目を移すと、何やら道標が立っていますね。

光雲寺の道標

光雲寺の道しるべ。

ここから高取町の光雲寺へと通じているようです。

車木ケンノウ古墳

重祚して二度目の即位を果たした斉明天皇。

時は661(斉明7年)年、百済復興支援のために朝鮮半島出兵を決意します。

自ら筑紫に出向いた斉明天皇ですが、出征先の朝倉宮(福岡県朝倉市付近)で最期を迎えることになります。斉明天皇の殯(もがり)は飛鳥川原で行われたと伝わります。

日本という国の礎を築いた天武天皇へと続く系譜。

そこにしっかりと根を下ろす斉明天皇の存在は、古代史における重要な曲がり角でもありました。車木ケンノウ古墳の見学は無料です。是非皆さんも一度、足を運んでみられることをオススメ致します。

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