第一ホテル両国に宿泊した今回の東京旅行。
早朝5時過ぎに目が覚め、両国エリアマップを片手に散歩に出かけることになりました。前日は野見宿禰神社や北斎美術館の建設予定地などを巡りました。そのため、今回はJR両国駅の南方を目指します。
勝海舟生誕の地碑。
その右手には由来の碑文、椅子のオブジェが並びます。
勝海舟と言えば、あの坂本龍馬が師と仰いだ人物です。龍馬の史跡巡りは、京都の霊山歴史館や霊山護国神社などで済ませていましたが、勝海舟の足跡を辿るのは今回が初めてです。
江戸を戦火から守った江戸城無血開城
勝海舟の実績で真っ先に思い浮かぶのが、江戸城の無血開城です。
西郷隆盛との交渉に臨み、無血開城を成し遂げた功績は今に語り伝えられます。
勝海舟生誕の地である両国公園周辺には、数多くの歴史観光スポットがあります。周辺地図を広げてみると、吉良邸跡・本所松坂町公園、尺振八の共立学舎跡、本因坊屋敷跡、芥川龍之介文学碑等々が案内されています。どれも徒歩圏内でアクセスできる場所にあり、周遊観光にはうってつけです。
両国という場所柄、大相撲の相撲部屋も散見されます。時津風部屋、井筒部屋、出羽海部屋などは歩いてすぐの場所です。相撲写真資料館などもあったようですが、残念ながら今回は見逃してしまいました。
勝海舟生誕の地にある椅子のオブジェ。
”日本刀付き” というところが、いかにもこの場所を象徴していますね。
勝海舟幕末絵巻。
勝海舟の家紋である「丸に剣花菱」が目に飛び込んできました。
優美な印象を与える花菱紋が勝海舟のシンボルでもあります。
”鳶が鷹を生んだ 勝海舟誕生 文政6年(1823)” と案内されていますね。
鳶が鷹を生んだとはどういうことでしょうか。勝海舟の父親は、旗本小普請組の勝小吉という人物です。両国公園は父方の実家である男谷家跡地とされます。勝海舟の曽祖父も貧農の出と言われます。そんな出自から「鳶が鷹を生んだ」という表現が使われているのかもしれませんね。
勝海舟は青年期まで、この地で修行に励んだと伝えられます。
両国公園。
両国小学校の角にある芥川龍之介文学碑を見学した後、勝海舟生誕の地を目指して歩き出します。程なく右手に両国公園が見えて参りました。園内からはラジオ体操の音が聞こえてきます。
まさか公園内に勝海舟生誕の地があるとは知らずに、そのまま通り過ぎてしまいました。道に迷い、通行人に尋ねて初めて公園内に生誕地のあることを知ります。再び両国公園へと戻り、園内に足を踏み入れます。
ラジオ体操の真っ最中でした。
ご近所の方々の日課になっているのでしょうか。体操中のご老人方の間をすり抜けて、公園の反対側の方へと向かいます。
「勝海舟生誕の地」と書かれた案内板。
所在地と共に、勝海舟の写真が掲載されています。
幕末から明治初期にかけて、黎明期の日本をリードした幕臣。
勝海舟の名は日本史の教科書でもすっかりお馴染みですよね。
幕末の動乱期に、神戸海軍操練所の創設や江戸城無血開城を成し遂げた偉人として伝わります。
ペリー提督の黒船来航。
鎖国を続けていた日本に、激震が走った瞬間です。
アメリカに開国を要求され、焦りの色を隠せない我が国日本・・・当時の江戸幕府は海防に関する意見書を、幕臣から町人に至るまで広く募ったと言います。その際、勝海舟の意見書が老中の目に留まることになります。勝海舟はこの意見書を契機として念願の役入りを果たすことになります。
1862年には軍艦奉行に就いた勝海舟。
神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の脱藩者たちもその塾生となります。この時の塾頭が坂本龍馬だったと伝えられます。
あくまでも幕府の海軍ではなく、”日本の海軍” 建設を目指していた勝海舟。
そのため、保守派から疎んじられて軍艦奉行を罷免されることになります。歴史の波にもまれながらも、時は江戸開城談判へと続いていきます。
西郷隆盛との交渉を描く江戸城開城の場面。
日本史上、あまりにも有名なワンシーンですよね。勝海舟という存在無くして、今の東京があったかどうか・・・明確に答えられる人はいないのかもしれません。江戸から東京へ、その歴史の橋渡しに大きな貢献があったことに異論の余地はありません。
東京スカイツリー。
両国公園から程近い場所に、現代東京のシンボルであるスカイツリーが建っています。
墨田区の両国界隈は、新旧織り交ぜた東京の魅力を感じることのできる一大観光エリアです。
墨田区立両国公園。
勝海舟と言えば、やはり海のイメージですよね。
波しぶきを立てる波頭がデザインされているのかもしれません。
勝海舟生誕の地・両国公園の住所は、東京都墨田区両国4-25-3 となっています。両国観光の際は、是非一度勝海舟ゆかりの地を訪れてみましょう。