相撲の興行場所だった回向院。
現在は両国国技館に於いて催される大相撲ですが、その歴史を辿れば回向院(両国)に辿り着きます。江戸時代に回向院境内で行われていた勧進相撲興行が、歴史を経て現代の大相撲興行へと発展していくのです。
JR両国駅から国技館通りを南下すると、相撲の歴史を今に伝える回向院があります。駅の北側の両国国技館からも程近く、大相撲ファンにとっては必見の観光スポットとなっています。
歴代相撲年寄の慰霊碑『力塚』
回向院の山門をくぐり、しばらく進むと左手に大きな石碑が見えて参ります。
ビルを背後に建つその石碑には「力塚」の文字が刻まれていました。
両国回向院の力塚。
江戸時代の相撲興行は、主に公共社会事業の資金集めのために行われていたそうです。江戸時代中期の明和5年から寛政、文政年間に至るまで勧進相撲興行の中心地が回向院だったと言います。国技館建設に至るまでの相撲を、特に回向院相撲と呼ぶようです。
昭和11年(1936)1月に、大日本相撲協会によって力塚が建立されました。歴代相撲年寄を慰霊するために建てられた力塚が、相撲ファンのみならず数多くの参拝客を出迎えていました。
力塚の脇に解説文がありました。
所在は東京都墨田区両国2丁目8番、相撲関係石碑群<力塚>と書かれています。
墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768)9月の回向院における初めての興行にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに相撲が行われていました。
天保4年(1833)10月からは、回向院境内の掛け小屋で相撲の定場所として、年に2度の興行が開かれ、賑わう人々の姿は版画にも残されています。
明治時代に入っても、相撲興行は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884)に行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。
力塚は、昭和11年に歴代相撲年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時にこの場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記と法界万霊塔もこの中に移動しました。
現在は、相撲興行自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を象徴しています。 墨田区教育委員会
相撲人気にも陰りが見えた時期があったようですが、天覧相撲によって復活したと案内されています。
思えば相撲の歴史は天覧相撲によって始まっています。
国民的ヒーロー長嶋茂雄の天覧試合でのホームランも語り草ですが、我が国にとって天皇という存在は絶対的です。その天皇のご覧になられている御前で再び息を吹き返すことになった相撲。以降の隆盛ぶりは説明を待たないところですね。
かつての横綱の四股名なのでしょうか、武蔵山と刻まれています。
大日本相撲協会奉納の石も向こうに見られますね。
こちらも横綱の名前でしょうか。
「横綱 土佐 玉錦三右エ門」と刻まれます。いかにも力士関係者の供養碑らしく、力強い「力塚」の文字が躍っていますね。
通算31回の幕内優勝回数を誇る国民栄誉賞受賞の横綱千代の富士がお亡くなりになられました。回向院から北東方向には九重部屋があります。ウルフの愛称で親しまれた名横綱を育んだ相撲部屋です。私も中学生時代、千代の富士の相撲中継には熱中したものです。数々の横綱を生み出してきた相撲の歴史に敬意を表します。
力塚前の建物。
二階部分に竹が植えられていました。一階部分であればごく普通に見られる光景ですが、これはちょっと珍しいですよね(笑) 社務所の一角なのでしょうか。
力塚の背後には高いビルが見えています。
回向院には無縁仏も多数葬られているようです。
元々回向院は、明暦の大火による犠牲者を供養するために建立された歴史があります。明暦3年(1657)、10万人以上もの命を奪ったという振袖火事が起こります。その身元不明者を合葬、供養するために建てられたのが両国回向院だったのです。以後、火災や震災、洪水などによる無縁仏も葬られるようになりました。
力塚前の香炉台のようなものに、桜の紋が刻まれていました。
力塚が建っているということで、相撲関係者の参詣も多いのではないかと思われます。ご存知のように両国駅界隈には多数の相撲部屋が散在します。回向院のすぐ近くにも時津風部屋、井筒部屋、出羽海部屋などがあります。
回向院が無ければ今の大相撲があったかどうか・・・国技である相撲の歴史を紡いできた回向院というお寺の存在を改めて胸に刻みます。
<両国の相撲観光案内>