世に名高き龍安寺のつくばいを拝観して参りました。
銭形に模られた龍安寺のつくばいは、その真ん中にほぼ正方形と思しき穴があり、清らかな水がなみなみと張られています。パッと見た瞬間に、「足」という字がコミカルに浮かび上がります。
吾唯足知。
時計回りに読んで、「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」と解釈します。禅の境地を表しているとされる龍安寺のつくばいは、方丈の北東方向にひっそりと佇んでいました。
水戸光圀寄進の蹲と秀吉賞賛の侘助椿
このままじっと、ただただあるがままに龍安寺のつくばいを眺めていたい気持ちになります。
あぁ、来て良かったと思える瞬間です。
龍安寺の石庭手前の売店にも、つくばいをモチーフにしたグッズが色々販売されています。
「吾唯足知」。
私はこの謎掛けのような言葉に出会う度に、ビートルズの Let it be を思い出してしまうのです。関係ないといえば関係がないのですが、「あるがままに」という言葉が、この「吾唯足知」によく馴染むのを覚えます。
石庭を鑑賞した後、方丈の襖絵を見学しながら、ぐるりと方丈の周りを回り込みます。
角を曲がったところで、どうやら左手前方に見えているのが龍安寺の蹲(つくばい)のようです。前を行く観光客が足を止めて、じっと見入っている姿がうかがえます。
満足してしまったら、そこで終わりだ。
そこから先の進歩は有り得ない。これも確かに一面の真理を言い当てているような気が致します。
しかしながら、物事に感謝し、自らを一歩引いたところで見つめ続け、ありがたい気持ちに満たされながら完成を目指して行く。そういう姿の中にこそ、本当の人間の佇まいとでも言うべきものがあるのではないか、そんな風にも思えます。
あるがままに受け入れる。
調子のいい時も悪い時も、いつも変らぬ姿勢で歩み続ける。
調子が悪いなら、悪いなりのやり方がそこにはある。人間万事塞翁が馬、輪廻転生、大宇宙の中で巡り続ける何か大きなものに私たちは己が身を委ねています。Something Great とでも表現したらいいのでしょうか、そんな計り知れないほどの大きな枠の中で私たちは生かされている。足りない、足りないと欲に任せて走り回るよりも、大所高所から物事を見つめてみるのも必要です。
龍安寺方丈の襖絵。
おそらくジョン・レノンの行き着いた境地にも、禅の心に響き合う何かがあったのではないでしょうか。
龍安寺の売店に売られていた石庭屏風。
石庭に降り立つ人の姿が描かれていますね。もちろん、現在は龍安寺の石庭に降り立つことは禁止されています。方丈前の軒下に座って石庭を鑑賞することになります。
15個並んだ石庭の石は、どの角度から見ても全部揃って見えることはありません。龍安寺の石庭にも、吾唯足るを知るの精神が込められているような気が致します。パーフェクトの一歩手前、腹八分目とでも申しましょうか、そこで満ち足りることの大切さが伝わって参ります。
龍安寺のつくばいの近くに、侘助椿が植えられていました。
豊臣秀吉が賞賛したと伝えられる侘助の老樹です。
禅の格言を図案化した蹲(つくばい)は、水戸光圀の寄進と伝えられます。
昔のお金がデザインされているというのも面白いですよね。金銭欲に苛まれそうになったら、龍安寺の蹲に思いを糺してみるのもいいかもしれません。よくよく考えてみると、水の張られた四角形の口の部分は、満タン一歩手前なのかもしれませんね(笑)
侘助椿の脇に花頭窓が見えます。
禅寺ではよく見かける花頭窓ですが、少し平べったく変形していて、さりげなく投げ掛けた目線を奪います。建物の意匠と共に、どこか漫画を思わせる「足」の字の印象が頭に焼き付いた拝観となりました。