墨田区両国の本所松坂町公園。
ここは赤穂浪士討ち入りの舞台として知られます。四十七士が討ち入りした吉良邸の一角が、現在も公園として残されていました。歴史好きにはおすすめの観光スポットです。
吉良邸跡・本所松坂町公園。
歴史ある風情の海鼠壁(なまこかべ)に囲まれています。場所は両国小学校の少し西側です。東へ数分歩けば勝海舟生誕の地、西には回向院があります。人気の観光スポットが密集しており、JR両国駅からも徒歩5分ほど到着しました。
吉良上野介義央座像&みしるし洗い井戸
忠臣蔵では悪役に仕立てられた吉良上野介。
領地の三河吉良(愛知県西尾市吉良町)では、「吉良様」と親しまれる善政の殿様でした。吉良町には吉良の菩提寺・華厳寺があり、吉良上野介を模った寄木造の座像が現存しているそうです。その座像を参考にして制作されたのが、本所松坂町公園に祀られる座像です。
吉良上野介義央公座像。
これぞまさしく、吉良邸跡のシンボルですね。
華厳寺にある義央座像は、上野介が50歳の時に自ら造らせたものと伝わります。その姿形に似せて、愛知県歴史編纂委員会の調査資料を元に制作されました。
両国3丁目の道案内。
本所松坂町公園(吉良邸跡)、両国公園(勝海舟生誕の地)、相撲写真資料館などが案内されています。
都指定旧跡「吉良邸跡」の旗が揺らめきます。
吉良家の家紋なのでしょうか、引両紋(ひきりょうもん)が目印になっていました。いわゆる「足利二つ引」のデザインです。吉良家は清和天皇の後裔で、先祖は足利左馬頭義氏とのことです。
吉良邸跡へのアクセス途上、シャッターのデザインが目に留まりました。
何が描かれているのかよく分かりませんが、本所松坂町公園と同じなまこ壁も見られますね。
赤穂浪士の遺蹟・吉良邸跡に到着です。
歴史ドラマの題材としても、度々取り上げられる赤穂浪士討ち入りの舞台!いよいよそこに足を踏み入れます。
やはり一番目立つのがこの座像です。
寛永18年生まれの義央(よしひさ)。13歳で将軍家綱に謁見し、後に京への使者を任され、その責務を果たすことになります。以降は有職故実の家柄として重用されるようになり、賓客応侍にかけては他の追随を許しませんでした。
吉良上野介義央公座像のプレート。
義央が身に着ける衣冠も、当時の色が再現されているようです。
衣の裏地は目の覚めるような赤色だったのですね。
反り返る衣に義央への敬意が見て取れます。
みしるし洗いの井戸。
座像向かって左手の片隅に、上野介の首を洗ったという井戸が残されていました。
漢字で書けば、「御首級(みしるし)洗い井戸」と表記されるようです。
忠臣蔵 Site of former residence of lord Kira
吉良邸跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2,550坪(約8,400㎡)だったとされています。
吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月の刃傷事件の数か月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えています。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。
吉良家 家臣二十士碑。
みしるし洗い井戸の手前に祀られます。
赤穂浪士が討ち入った際、攻め手の赤穂浪士側は完全武装だったこともあり、軽傷者2名で済んだと言います。それに反し、防御側の吉良勢は20名の死者を出してしまいました。
毎年12月14日の討ち入りの日には、赤穂浪士四十七士と、吉良二十士の両家の供養を行う『義士祭』が行われています。
松坂稲荷と飯澄稲荷も参拝
本所松坂町公園内には、松坂稲荷というお稲荷さんも祀られていました。
稲荷神社といえば商売繁盛をイメージするわけですが、まさか吉良邸跡に鎮座しているとは思ってもみませんでした。
松坂稲荷大明神由来
『松坂稲荷』は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めのために遷官され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当所に遷座されました。
兼春稲荷と上野稲荷の二社が合祀され、昭和10年になってからこの地に遷座したことが記されます。
今は狭い敷地の一角に祀られます。
ちゃんと朱色の鳥居も建っていました。
「兼春稲荷大明神」の文字が見えます。
社殿には注連縄と紙垂が下がり、結界が引かれていました。
のぼり旗の足元。
余計なお世話ですが、風が吹くとカタカタ音が鳴るでしょうね(笑)
鳥居から義央公座像を見ます。
公園内にはベンチも置かれていて、ゆっくりと時間を過ごすこともできます。
赤馬玩具の写真。
約100年位前から吉良町で、つくられている置物。
義央公は赤馬にまたがり領地内を巡回し、領民と親しく接していた赤馬。(農耕用の駄馬)
領地の吉良町では評判が良かった義央公ですが、駄馬の赤馬に騎乗していたことからもそのことがうかがえますね。名君吉良様と共に、吉良の赤馬は善政のシンボルでもあります。
領地の三河では、新田開拓や塩業の発展に力を注ぎました。
その中でも一昼夜で築いたという、長さ182mの堤がよく知られます。長大な堤を築く治水工事で豊作が保証されたことから、今でも「黄金堤」と称されているそうです。
吉良町甚句の団扇。
国宝建物金蓮寺 七福神の宝珠院 仁吉の墓は源徳寺 吉良の殿様華厳時で 黄金堤か陣屋跡・・・
是非 ”節付き” で聴いてみたいものですね。
忠臣蔵の物語の舞台。
地域の人々との結び付きも強く、12月の第二土曜日・日曜日には『元禄市』が盛大に催されます。両国3丁目松坂睦主催により、地元商店会をはじめ100店余が出店する賑やかな祭りです。主君のために亡くなった吉良家家臣の冥福を祈る吉良祭も開かれ、数多くの人で賑わいを見せます。
鏡師中島伊勢住居跡の案内板。
本所松坂町公園のすぐ近くに、葛飾北斎の出征にまつわる話が記されていました。
中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となったこの辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦13年(1763)、後に葛飾北斎となる時太郎(ときたろう)を養子とします。北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家はこの養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが、北斎はその後も中島姓を名乗っていることから・・・
吉良邸跡の目の前にある飯澄稲荷。
またまたお稲荷さんですね。
扁額に「飯澄稲荷」と記されます。
周囲に案内板は見当たらず、祭神などの詳細は不明です。
街ナカにある名所です。
両国エリアマップを広げてみると、吉良邸跡の周囲には時津風部屋、井筒部屋、出羽海部屋などの相撲部屋が密集しています。JR総武線の線路を挟んで北側には大相撲の聖地・両国国技館もあります。
さらに吉良邸跡から北西方向の隅田川沿いに目を移すと、赤穂浪士の一人・大高源五の句碑が案内されていました。両国橋東詰付近へ足を延ばせば、大高源五が詠んだ「日乃恩や 忽ちくだく 厚氷」の碑を見学することができるようです。