東京都慰霊堂があることで知られる横網町公園。
両国駅から清澄通りを北上し、第一ホテル両国の角を左折してそのまま公園の中へと入って行きます。程なく左手にお寺でよく見かける鐘楼のようなものが見えてきました。
横網町公園の幽冥鐘。
石段の上に鐘楼があり、その手前は健康づくり広場(ラジオ体操場)になっていました。早朝の訪問でしたが、清掃員の方が園内を掃き清めていらっしゃいました。すぐ右手には、東京都慰霊堂の建物が控えています。
中国仏教徒から寄贈された追悼の鐘
1923年に大地を揺るがした関東大震災。
その報せは隣国の中国にも届き、人々の心を動かしたようです。
私は奈良県人ですので、遣隋使や遣唐使を通じて様々な文化が日本にもたらされた歴史を肌身に感じています。今は共産圏の国ということで、何かと日中間にも角が立つ出来事が多く起こります。そんな中、こういった友好の証しを見ると、心が安らぐのを覚えます。
関東大震災に際し、中国仏教徒から贈られたという幽冥鐘。
当時の中国国内では、犠牲者を悼み念仏法要も行われたと言います。
幽冥鐘の前はフェンスで仕切られていて、中に入ることは出来ませんでした。フェンス越しに眺めるしか手立てがないのですが、下へいくほど広がった形をしていることが分かりますね。非常に特徴的なフォルムの梵鐘です。
幽冥鐘の由来が案内されています。
この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。
また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。
その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由で大正14(1925)年11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。
この鐘を安置する鐘楼は、昭和5(1930)年8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。
”幽冥鐘一隻を鋳造” と案内されていますね。
通常は船を数える際に使われる「隻」という漢字。梵鐘の数え方としては1口、2口が一般的だと思われるのですが、中国では今でも1隻、2隻と表現しているのでしょうか。隻という漢字が使われているところを見ると、あらゆる意味で重みのある寄贈品だったのかもしれません。
横網町公園の地図。
園内には東京都慰霊堂や東京都復興記念館などが記されています。
よく見ると、乳幼児用施設や車椅子利用可の場所もあるようです。未曾有のペースで進む日本の高齢化社会に対応すべく、こういった公園でも対策が進められているのですね。
横網町公園を後にし、JR両国駅方面へと向かいます。
江戸東京博物館や両国国技館の裏手を通って行くのですが、そこには割と広い駐車場がありました。
早朝の両国国技館裏手。
大相撲の世界もインターナショナルになり、米国やモンゴル出身の力士が台頭してくるようになりました。でも、はたと気付けば中国や韓国出身の力士はあまり見かけないですよね・・・と言うより、皆無なのかもしれません。
中国の人の温かい心に触れた後だったので、ちょっと意外な気もしました。