龍田大社の風鎮大祭(ふうちんたいさい)を見学して参りました。
風の神と仰がれる龍田大社。その鎮座地は奈良県生駒郡三郷町立野南で、JR大和路線三郷駅より徒歩5分の距離です。今回私は車で龍田大社へアクセス致しました。国道168号線から王寺駅の手前で左折し、大和川沿いを進みます。神前橋東詰を右折して大和川を渡り、さらにJR関西本線の踏切を超えて山手へ上って行くと、程なく左手に龍田大社の駐車場を案内する看板が見えて参りました。
風鎮大祭催行中の龍田大社拝殿。
毎年7月の第一日曜日に執り行われる風鎮大祭。風鎮祭(かぜしずめまつり)とも呼ばれる祭事は、午前10時30分より開始されます。カーナビを設定して目的地の龍田大社を目指し、ちょうど時間通りに到着することができました。
神楽、居合抜き、風神花火が奉納される風鎮大祭
龍田大社の風鎮大祭は一日中行われています。
私は生憎午前中のみの参拝になりましたが、それでも古式ゆかしい龍田大社の空気を全身に浴びてリフレッシュすることができました。
午前中の神事は、災害や疫病を鎮め、豊作を祈願する祝詞の奏上に始まります。
巫女による龍田神楽、剣舞、居合抜きなどが奉納され、午後になると風神太鼓が披露されます。そして風鎮大祭の極め付けは、夜遅くに行われる風神手筒花火の奉納です。神様に火のごちそうである「風神花火」を奉納するわけですが、愛知県の三河伝統の花火として知られます。風神花火奉納の催行時間は午後9時~午後10時と意外に遅く、遠方からの参拝客にとっては見たくても見られないパフォーマンスなのかもしれませんね。
午前中の風鎮大祭に集う参拝客。
私が到着した時には既に、数多くの見物客が昇殿参拝中でした。奈良県内の政治家面々や、大神神社の宮司代理の方のお姿もお見受けしました。県内有数の祭事とあって、様々な方面から風鎮大祭へお越しになられているようです。
ご神職の方々も低頭して、厳かな神事が進行していきます。
風鎮大祭のクライマックスとして盛り上がる風神花火。宮司をはじめ、一般の参拝客も両手に筒を持って並び、次々と点火されていく様子は圧巻の一言に尽きます。花火の火柱は5メートルにも及ぶそうで、火の粉が夏の夜空を舞って祭は最高潮に達します。
龍田大社のお守り「風神護符」
龍田大社の朱色の鳥居をくぐると、右手に清めの手水舎があります。
そこから真っ直ぐに参道を進めば、風鎮大祭が行われている拝殿・本殿へと辿り着きます。手水舎から右手に折れると、おトイレやお守り授与所(参拝受付)があります。ここでひとつ、龍田大社のお守りをチェックしておきます。
風神護符。
「風神」と書かれたお守りが参拝受付に置かれていました。
中国由来の陰陽五行に由来するお守りのようです。誰しも生まれながらに持ち合わせている木・火・土・金・水の五行。その五行をそれぞれ色に当てはめたお守りを購入することができます。
五行の色の組み合わせは、木が青色、火が赤色、土が黄色、金が白色、そして水が黒色になります。
心の健康には欠かせない五気。バランスが取れている時には問題ないのですが、その気が足りない場合や逆に多すぎる場合が生じます。そこで、足りない気を補い多すぎる気を抑え、バランスの良い気の力を保ちます。これは日常生活の中で、心強いお守りになること請け合いですね。
龍田大社の御神紋である竜田紅葉の描かれたお守り。
左が厄除守、右が八方除守です。
境内には厄年の案内された看板が見られましたが、龍田大社に厄除祈願に訪れる参拝客も多いようです。右の白いお守りは八方塞がりの状況を打破するためのお守りなのでしょうか、竜田紅葉の周りに子、艮、卯と八方位が描かれています。
龍田大社の駐車場
龍田大社には、広い無料駐車場が完備されています。
朱色の鳥居前に、普通車100台分の駐車場があります。普段は満車になることもないものと思われますが、さすがに風鎮大祭当日の駐車場は満車一歩手前の混雑状況でした。
龍田大社の鳥居。
鳥居左手には、「官幣大社龍田神社」と刻まれた社号標が建ちます。
正面に見えているのが拝殿で、その手前の参道には露天商の方々のトラックが駐車していました。
龍田大社の駐車場。
鳥居前に広々とした駐車スペースが確保されています。
龍田大社の鳥居は両部鳥居の形式ですね。
歴代朝廷からも深い信仰を集めた龍田大社。
第10代崇神天皇の御代、国内は凶作や疫病の流行で乱れに乱れました。そこで、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢のお告げがあったと言い伝えられます。天御柱命(あめのみはしらのみこと)と、国御柱命(くにのみはしらのみこと)の二柱の神を龍田山に祀れというお告げだったようで、お告げ通りにお社を造営すると、世の中の混乱は見事に収まりました。
龍田大社の創建は、崇神天皇の夢のお告げに端を発しています。
七五三や結婚式も行われる龍田大社
手筒花火の風鎮大祭のイメージが強い龍田大社ですが、普通の神社と同じくお宮参りや結婚式も執り行われています。
風鎮大祭の最中に尿意を催して、境内のおトイレを探します。
手水舎の裏手のおトイレに駆け込んで用を足したのですが、男性用のおトイレには隣りとの仕切りが無く、かなり原始的な解放感を味わえました(笑)
龍田大社の手水舎。
立派な注連縄に、紙垂が四つ掛けられていました。
おトイレの近くで、昔使われていたであろう七五三受付の看板を見つけます。
うさぎ、象、タヌキ、パンダが描かれていました。
3歳の男女の「髪置」、5歳の男の子の「袴着」、7歳の女の子の「帯解(おびとき)」に由来する七五三。産土神に子供の成長と健康を祈願する七五三は、龍田大社においてもお馴染みの行事のようです。
龍田大社の阿形の狛犬。
平べったい体形をした特徴のある狛犬です。狛犬の口の中に、10円玉が数枚納められていました。
龍田大社では結婚式のみならず、結婚25周年を祝う銀婚式、50周年を祝う金婚式、さらには60周年を祝う金剛石婚式などの祈祷も行われています。
風鎮大祭の陰に隠れがちではありますが、様々な人生儀礼においても風の神・龍田大社は参拝客を広く受け入れています。
元寇で日本を守った神風
龍田大社には風の神にふさわしい伝説があります。
水の神を祀る広瀬神社に対し、風の神を祀る龍田大社。
天武天皇の時代に官社として祀られた龍田大社。そこで行われる風鎮大祭は、率川神社のゆりまつりと同じく「大宝令」にも出ている最古の祭りとして知られます。間違えやすいのですが、斑鳩町竜田にある龍田神社は新宮で、それより西の三郷町立野にある龍田大社は本宮とされます。龍田大社の御祭神の天御柱神(志那都比古)・国御柱神(志那都比売)は比古・比売の二神で、古来この地を領有していた祖神であり、また風の神でもあります。
風鎮大祭のスケジュールが案内されていました。
午前の部が本祭の風鎮大祭で、午後の部は神賑奉納行事と呼ばれているようです。
風鎮大祭の最中、本殿から降りて来られたご神職。
龍田大社の神風伝説ですが、その舞台は日本史の教科書でもおなじみの元寇のワンシーンです。
九州近くまで攻め上がって来た中国元の船団。
困った日本軍は石垣を築いて番人を置きます。いよいよ九州の玄界灘に姿を見せた元の船団と、上陸に備えて待ち構える日本軍。その時、日本のあちこちの神社やお寺では敵軍調伏(ちょうぶく)の祈願が始まったと伝わります。龍田大社に於いても、日夜熱い祈祷が続けられました。
風鎮大祭中の拝殿。
ある晩、龍田大社の裏手から俄かに空が曇り始めたではありませんか。
天地が鳴動し、末恐ろしい黒雲の中を大きな竜巻が天へと昇り始めました。やがてそれは巨大な袋の玉となって舞い上がります。そのまま雲に乗った袋の玉は西の彼方、玄界灘方向へと飛んでいったと伝えられます。
拝殿前の石灯籠に「龍田本宮」と刻まれています。
写真右手には、まるで昇竜をイメージさせる注連縄が掛かっていました。風神伝説を彷彿とさせる、実に見事な注連縄です。
玄界灘まで攻め込まれ、土壇場に追い込まれた日本軍。
ちょうどその時、元の船団の上で龍田大社から飛んで来た袋の玉が破れました。すると、大暴風雨が引き起こされ、元の船団を見事に吹き飛ばしてしまったそうです。北条時宗に命じられた九州武士の奮戦と、神風とも呼ばれる暴風雨によって歴史的な難を逃れることになります。
今の日本があるのも、龍田大社の神様のお陰と言っても過言ではありませんね。
鳥居の左手奥に遥拝所がありました。
伊勢神宮、皇居、宮中三殿を遥拝する場所です。
祈祷参集殿の右手前に、八方位を示した手水がありました。
先ほど見た八方除守と同じ方位が記されています。
風の神として鎮座する龍田大社ですが、元寇の逸話の他にも、その立地に風の神としての意味が込められているような気が致します。
奈良盆地の河川を集めて流れる大和川。その大和川が、生駒山脈を横断して河内平野に流れる咽喉の地に龍田大社は鎮座しています。ここは大和と大阪を結ぶ大動脈に当たり、大阪湾から吹く風は大和川の川面をはって奈良盆地に吹き込んできます。風の神が鎮まるには、絶好の場所ではなかったかと思われます。
半夏生が見頃の風鎮大祭
風鎮大祭の季節には半夏生が見頃を迎えます。
半夏生とは七十二候の三十候目に当たり、夏至から十一日目を数える夏至の末候です。新暦の太陽暦では7月2日頃に当たり、梅雨が明けて田植えの終期とされます。サトイモの仲間の烏柄杓(からすびしゃく)が生える頃とも一致します。
祈祷参集殿の前に飾られていた半夏生。
半夏生(はんげしょう)はドクダミ科の多年草です。水辺に生じ、高さは60cmほどでしょうか。楕円形の葉っぱをしており、茎の頂に白色の葉が生え、その葉腋に白色の穂状花を綴ります。片白草(かたしろぐさ)とも呼ばれ、毎年風鎮大祭の頃には見頃を迎えます。半夏生の背後に説明書きが添えられていますが、風鎮大祭のことを地元では「ハゲショ・ハンゲショ」と呼び習わしているようですね。
拝殿右前のスペースに、「乙羊歳 風の言霊 一途」と書かれた板が立て掛けられていました。
毎月朔日の月次祭後に宮司さんの講話が行われるようなのですが、この一途という言葉は、今年一年の龍田大社からのメッセージにもなっているようです。
風の神様から頂いた言葉を、「風の言霊」と題して神社から参拝客へ届けられます。
旧陸軍省が奉納した加農砲(カノン砲)。
砲弾も上向きに置かれていますね。鳥居をくぐって参道左手に足を向けると、こんな意外なものを見つけてしまったわけですが、どうやらカノン砲の周りは再開発が進められているようでした。工事車両が入って、これから何かが造成されるように見受けられました。
そう言えば、水の神・広瀬神社にも日露戦争の戦利品が展示されていたのを思い出します。広瀬神社の鳥居も両部鳥居ですし、何かと龍田大社との共通点を見出します。
龍田大社の御神紋「竜田紅葉紋」。
龍田大社の西を竜田川が流れていますが、その川岸には楓の木がたくさん植えられています。紅葉シーズンになると、この辺りは紅葉狩りの行楽客で賑わいます。竜田と言えば紅葉、昔の歌にも詠まれた紅葉の名所です。
拝殿の釣灯籠にも紅葉がデザインされていました。
竜田の地名にはある伝説が残されています。
昔、竜田エリアに雷神が落ちて童子となり、その童子を農夫が子として大切に養ったそうです。
とある夏の始め、他所は旱魃(かんばつ)だったにも関わらず、この農夫の田には雨が降って稲がよく実りました。その後、この童子は暇乞いをして小竜となり天に昇って行ったそうです。この逸話から、その田圃を竜田と言うようになったという地名説話です。
風の神・龍田大社を訪れたのは今回が初めてでした。
10月には秋季大祭・渡御祭も執り行われるようです。その他にも、ぼけ除け大祭や瀧祭など、見所がいっぱいの神社です。風鎮大祭だけで満足することなく、また別の機会に参詣してみようと思います。
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