社会福祉に貢献した忍性菩薩。
”ボランティアの開祖”とでも言うべき忍性菩薩のお寺が奈良町(ならまち)の西方にあります。奈良市内観光の穴場で、あまり訪れることのないエリアです。ハンセン病患者収容の北山十八間戸で知られる忍性菩薩ですが、南へ下った ”ならまち” にもゆかりの寺がありました。
十念寺山門。
二基の石燈籠を配し、山門入った所には十三重石塔らしき多重塔が建っています。
湯屋を推奨した忍性!南風呂町の由来
十念寺の所在地を南風呂町(みなみふろちょう)と言います。
元興寺の西側に位置し、かつてのサウナ風呂に由来する地名です。風呂の蒸気に当たれば、萎えかけていた体力も快復します。今も昔も変わらない生活の知恵ですね。現在でこそ娯楽の意味合いが強い入浴ですが、かつては病気を治すことに主眼が置かれていたことでしょう。
十念寺本堂。
正式名称を「忍性山愛染院金比羅十念寺」と称します。
右手前の覆屋は井戸でしょうか、その奥には地蔵堂らしき建物も見えました。忍性自身は真言律宗の僧と伝わりますが、十念寺の宗派は浄土宗のようです。
源平合戦がひとまず落ち着き、迎えた鎌倉の代。鎌倉時代になってからも、各地では小競り合いが続いていたと云います。忍性の母親は、武士には向かない優しい心根の忍性を心配していたそうです。
忍性は奈良県磯城郡三宅町の屏風という所で生まれています。”屏風” は聖徳太子ゆかりの屏風杵築神社で知られます。幼い頃から聖徳太子を肌身に感じながら育ってきたことでしょう。屏風杵築神社から太子道を南へ行けば、忍性菩薩御誕生之碑が建っています。令和の時代に入り、屏風の浄土寺には忍性菩薩像も安置されるようになりました。
少しずつ進む忍性菩薩の顕彰。
湯屋が健康にいいことを知った忍性は、人々にお風呂に入ることを勧めたそうです。この地に忍性のお寺があるのも納得ですね。
十念寺の案内板。
左側には英語案内も出ていました。
寺号は忍性山 愛染院 金比羅 十念寺。
浄土宗西山深草派。
忍性菩薩が開基の寺院です。(1288~1293)
忍性菩薩は鎌倉時代の学僧で、奈良県出身です。(1217~1303)この地域が風呂町と言うのは忍性菩薩が風呂を沸かして入ることを人々に勧めたからと言われています。
また、病気の人達の救済施設を建てたり、各地に橋は189ヵ所、道は71ヵ所、池や井戸も沢山造られました。
社会福祉の仕事をした人だと言われています。
鎌倉では北条氏に招かれ鎌倉極楽寺の開山として活躍されました。また、次の所等でも活動されました。
◆摂津多田院 別当 (建治元年 1275年)
◆鎌倉大佛 別当 (弘安7年 1284年)
◆奈良東大寺 大勧進(永仁元年 1293年)
◆大阪四天王寺 別当(永仁2年・6年 1294年・98年)おしろい地蔵
おしろい地蔵さんはお化粧をしています。
おしろい地蔵さんにはきれいになりますようにと言うお願いをします。お地蔵さまはどのような者でも、あらゆる場所で、あらゆる姿に変わって悩み苦しむ人々を救い続ける願いを持っています。子ども達のためには母となり父ともなって救ってくださる仏です。
おしろい地蔵の案内に目を通します。
「綺麗になりますように」ということは美人祈願も含まれるのかもしれません。しかしながら、おしろい地蔵の由来にはもっと深いものが伝わります。ハンセン病(らい病)が治ったお礼に白粉(おしろい)を納めたというのです。
十念寺は当初、大安寺南の八条村にありました。ならまちへ場所を移しているわけですが、忍性の人生では西大寺叡尊との出会いが大きかったものと思われます。
金比羅大権現と刻む石燈籠。
海無し県の奈良には珍しい金比羅さん。奈良筆などの輸送に瀬戸内海や外海を通る必要があり、その時の願いが反映されているようです。
忍性は死後、後醍醐天皇から「生身の菩薩」として ”忍性菩薩” の称号を賜りました。当時の権力者であった北条氏から鎌倉の極楽寺を引き受け、鎌倉の地に没した高僧忍性。
十念寺愛染堂の東傍らには忍性の供養塔が建っています。