風神を祀る龍田大社境内に、清らかな水の聖域があります。
龍田大社末社の白龍神社です。
龍田大明神の使いとして崇められる白龍大神を祀ります。
白龍神は水を好まれるそうで、注連縄の張られた神石に水を注いでお参りします。本殿左側に鎮まる白龍神社エリアには、スピリチュアルで清冽な気が流れています。三輪山麓の大神神社にも白蛇が棲むと云いますが、ここ龍田大社境内にも同じような聖域がありました。
縁結びや安産にご利益のある白龍神社
白龍神社は特に女性からの信仰が厚く、縁結び・安産祈願に訪れる参拝客が後を絶ちません。
龍田大社では神前結婚式も執り行われていますから、ここ白龍神社のご利益で結ばれたカップルも少なからずいらっしゃるのかもしれません。
白龍神社の鳥居。
右手に本殿との境目の玉垣が見えています。
五本の鳥居が綺麗に並んでいますね。
龍田大社末社の白龍神社案内板です。
江戸末期に当社のご神域に白蛇として出現し、明治後期一夜にしてそのお姿が見えず当時騒然たりしも、明治四十一年の春突如(大和国葛城郡)にごり池に白龍として出現されし吉報に依り、当時藪宮司・神官・地元氏子に依り辛櫃を奉持しお迎え申し上げこの地に祭祀されたのが当社創建と伝わる。その後本社龍田大明神のお使え神結びの神・浄難災難除けの神として、女性の方々の信仰は特に篤く、安産時期には祈願に訪れる参拝者が多い。
一時はどこかへ消えてしまった白龍が再び現れ、辛櫃(からびつ;唐櫃)を奉持してお迎えに上がったと記されています。
辛櫃は衣類や調度品、文書などを入れるための六本足の中国風の櫃で、龍田大社を上げて丁重にお迎えに上がった様子がうかがえます。
「白龍大明神」の扁額が掛かっています。
鳥居や扁額は察するに、まだ新しいものではないでしょうか。
白龍神社参道の右手に目をやると、本殿内に摂社の龍田比古神社と龍田比売神社が祀られていました。
背後からになりますが、左の社殿が龍田比売命で、右の社殿が龍田比古命に当たります。
参道を進んで、最後の鳥居の手前に辿り着きます。
賽銭箱のさらに向こう側に、白龍神社の御神体である神石が鎮まります。
奉納されているのは胡瓜でしょうか?
白龍神社に参拝したのは夏ということもありますが、梅雨明け間近の境内に、何とはなく胡瓜がよく似合います(笑)
鈴の穴に注目してみると、可愛らしいハート型をしています。
神社建築に見られる懸魚にも、猪目懸魚(いのめげぎょ)と呼ばれるハート型の意匠があります。果たしてこの鈴の穴も、同じ流れを汲むものなのでしょうか。
いずれにせよ、ここは縁結びにご利益のある白龍神社です。ハートの形を目にして悪い気はしませんね。
白龍神社の御神体です。
注連縄にしっかりと結ばれた二つの白布が印象的です。
この白い布にも何か意味が込められているのでしょうか。
龍田大社末社の恵比須神社と三室稲荷神社
白龍神社の左側には、同じく末社の龍田恵比須神社と三室稲荷神社が並んで鎮座しています。
本殿玉垣の右側には神饌所があるのみで、摂末社は一つも祀られていません。それに対して本殿左側には、左から三室稲荷神社、龍田恵比須神社、白龍神社の三つの末社が居並びます。
風鎮大祭催行中の拝殿。
風鎮大祭の締めに、宮司さんのお話がありました。神社に参拝すれば何かを感じるものですが、「感じる」とは「神(かむ)知る」であり、神を知ることに通じるという箇所が印象に残ります。祭事の小難しい由縁を知る必要はないのかもしれません。参拝する前に、龍田大社の歴史をわざわざ紐解く必要もないのかもしれません。ただただ、神社に足を運んで何かを感じる。そのことが最も重要なポイントなのかもしれません。
拝殿左側に回り込むと、龍田えびすと書かれた幟がずらりと並んでいました。
紅白の幟が龍田の緑によく映えます。
龍田恵比須神社の御祭神は、えびす大神(西宮大神・蛭児命)です。
その創建は寛元元年(1243年)に遡り、兵庫県の西宮戎神社より御分霊を勧請したのが始まりとされています。
当館大正楼の近くにも恵比須神社が鎮座しており、日本最古の恵比須神社と言われています。三輪坐恵比須神社はもっとその名を知られていいと思うのですが、どうしても知名度では今宮戎や西宮戎に軍配が上がります。
西宮戎から勧請された後、社殿は一時荒廃を余儀なくされます。
しかしながら、恵美須様を信仰する方々の御厚志により、再び昭和62年に西宮戎神社から御分霊をお迎えしています。龍田恵比須神社のご利益は、商売繁盛・福徳開運・家庭円満にあると言われます。
龍田恵比須神社の鳥居は南北に三本並んでいました。
白龍神社が五本でしたから、それより二本少ないことになりますね。
龍田恵比須神社からさらに左側に、三室稲荷神社が鎮座しています。
三室稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神とされます。
龍田恵比須さんと同じく、商売繁盛の神様として篤い信仰を集めています。
下照神社。
本殿左横に並ぶ末社三社から下手に下照神社という神社があります。
場所は神楽殿(旧拝殿)の裏側辺りで、遥拝所近くに池があり、そこに太鼓橋が架けられていました。
神社の名前から推測するに、おそらく下照姫(したでるひめ)が祀られているものと思われます。下照姫は大国主命の娘とも伝わる姫神で、「先代旧事本紀」によれば下照姫の兄は事代主命だと記されています。事代主は恵比須さんのことですから、龍田大社の境内に兄妹が揃って祀られていることになりますね。
和歌の祖神と伝わる下照姫。龍田大社の境内でも、一際静かな場所にその社殿を構えています。
下照神社からさらに南西方向に歩を進めると、そこには工事車両の姿が見られました。
また新たな社殿が建設予定なのでしょうか?
拝殿に御神燈の提灯が掲げられています。
参拝客が見守るのは、龍田大社を代表する祭事の風鎮大祭です。午前中の雨粒がもみじを濡らし、龍田大社ならではの光景を生み出します。
拝殿前の阿形の狛犬。
柵で二方を囲われているのが特徴的です。だんごっ鼻に大きな鼻の穴、それに横に裂けんばかりの大きな口をしています。口の中に10円玉が奉納されていますね。
狛犬は古代オリエント文化に由来する異形の犬とされますが、この狛犬を見ていると、確かにこんな生物は存在しないなとほくそ笑みます。
神様の息から生まれる風
昔の人は、今では考えられないような純粋な感性を持っていました。
風とは何なのか?
風は神の息から生み出されるものであると考えました。時折吹く風を神様の息と捉えたのです。息はそのまま「生(いき)」にも通じ、どこか風にも侵しがたい雰囲気がまとわされます。
本殿で行われる風鎮大祭の様子を、神社関係の方が撮影しておられました。
龍田大社の御祭神は、天御柱命(あめのみはしらのみこと)と国御柱命(くにのみはしらのみこと)で、それぞれがイザナギ・イザナミの御子神である志那都比古神(しなつひこのかみ)と志那都比売神(しなつひめのかみ)とされます。
この場合の志那(しな)には「息が長い」という意味が込められます。
国語辞典を紐解くと、鶏や水鳥(カイツブリ)を表す「息長鳥(しながどり)・尻長鳥(しながどり)」という言葉に出くわします。
神話の世界で鶏と言えば、天岩屋戸伝説の長鳴鶏(ながなきどり)を思い出します。アマテラスが天岩屋戸に引きこもり、世の中が真っ暗になってしまうのですが、長鳴鶏の鳴く合図でアマテラスが外に出てくるというお話が伝わります。コケコッコーと鳴いたのかどうかは定かではありませんが(笑)、とにかく息の長い鳴き声であったことは想像できます。
息長鳥(しながどり)と読ませるところに、神様の息との関連が見え隠れします。
祈祷参集殿。
「風神」と読むのでしょうか、それとも現代風に左から読んで「神風」なのでしょうか。
蒙古襲来時の神風伝説はよく知られ、龍田大社の代名詞にもなっています。
祈祷参集殿の天井に目をやると、その特異なデザインに目を奪われます。まるでルービックキューブのような色の組み合わせです(笑) 人間の一生を表す五色が配色されているようなのですが、参拝客が集う場所だけに、その噂もあちこちで聞かれるようになりました。
風鎮大祭の最後に、龍田大社宮司様から直々にご挨拶がありました。
偶然にもこの時間、この場所に居合わせた参拝客一同。確かにそれは偶然のようにも見えますが、必然だったのかもしれません。感じることは神を知ることにつながります。
風の便りに聞きつけてお参りした今回の龍田大社。きっと神様に呼ばれたのだろうと思われます。
最後になりましたが、龍田大社の神様・シナツヒコに関する興味深い話を付け加えておきます。
龍田大社と同じく、志那都比古神と志那都比売神を御祭神とする神社が大阪府内にも鎮座しています。
その神社の名前を「科長(しなが)神社」と言います。
大阪府南河内郡太子町に鎮座する式内社で、元は二上山上に鎮座して二上権現と呼ばれていました。奈良と大阪の境目にそびえる二上山に鎮座していたというのです。そこはまさしく風の吹き抜ける場所ではなかったでしょうか。科長は歴史地名の磯長(しなが)にも見られます。聖徳太子の磯長墓(叡福寺)はよく知られるところです。
神様の息が吹き抜ける場所に、いにしえより崇拝を集める風の神様が宿ります。