世界中の観光客が集まる東大寺。
開眼供養時のインターナショナルな雰囲気そのままに、今もなおその人気は不動のものと言ってもいいでしょう。
東大寺に参拝するといつも思うのですが、南大門前や中門前の人出に比べ、ここが東大寺なのかと思うほど静かな場所もあります。東大寺の境内は実に広く、一度の参詣で全てを網羅することは難しいものと思われます。そこで今回は、大仏殿以外の東大寺の見所をご案内することに致します。
東大寺三月堂(法華堂)。
国宝不空羂索観音立像をご本尊とする奈良時代の建物です。
天平年間後半の創建と伝わり、東大寺の中で最も歴史ある仏堂とされます。建物後方の正堂部分と、前方の礼堂が合体した珍しい造りになっています。元は双堂形式の建物でしたが、重源上人が礼堂部分を新築して今の形になりました。
創建以来、度々兵火に遭ってきた東大寺。廬舎那仏を安置する大仏殿も再建されているわけですが、この法華堂に限っては創建当時の姿を今に伝えています。
境内散策で見つけた二月堂石段の線刻模様
不空羂索観音立像、執金剛神立像、日光・月光菩薩立像など、仏像の宝庫とも言われる法華堂の北側に佇むのがお水取りで知られる二月堂です。ご本尊の十一面観音は秘仏で拝観することはできませんが、回廊舞台から開ける展望は実に素晴らしく、多くの参拝客を魅了しています。
二月堂舞台からの眺め。
良弁杉がそびえ、その向こうには四月堂を望みます。
良弁は東大寺初代別当を務めた僧正として知られます。毎年12月16日には良弁忌が催され、法要の後には良弁僧正坐像も公開されます。その良弁の名を冠した良弁杉の由来をお話ししておこうと思います。
その昔、近江の国に子宝に恵まれない夫婦がいたそうです。
観音様に一心に祈った結果、無事に男の子を授かります。しかしながら、その子が2歳のときに鷲にさらわれることになります。その鷲が奈良の大杉の上で羽を休めている時に、名僧の義淵(ぎえん)がやって来て男の子を助けたそうです。無事に救出されたその男の子こそが、東大寺建立に尽力した良弁だったのです。
良弁救出の伝説を持つ杉を見下ろします。
現在の杉は3代目だそうですが、二月堂のシンボルとして元気に天に向かいます。義淵に養育された良弁は、仏の加護により、実に30年後に大杉の下で母親と再会を果たしています。歌舞伎や文楽の演目にもなっている「良弁杉由来」が今に伝わり、そのエピソードが克明に描かれています。
三月堂の継ぎ足し部分を右手に見ながら、二月堂方面へと向かいます。しばらく歩くと右手に視界が開け、二月堂の舞台が見えてきます。手水場脇から上方へ階段が伸びており、舞台へ向けて歩を進めようとしたところで、はたと立ち止まります。
鮮やかな線刻文様が浮かび上がります。
東大寺二月堂の階段は全部で五十二段あると言われますが、その一段目、二段目、三段目に立て続けに素敵なデザインを見ることができます。下から流水、亀甲、唐草文様の意匠が施されていました。一段目の流水紋を青海波紋と見る向きもあるようですが、ご判断はお任せ致します。
そして二段目は、亀の甲羅を思わせる六角形の亀甲紋。
お醤油のキッコーマンの名前の由来にもなっている吉祥の印です。日本料理の世界においても、里芋の六方剥きはよく知られるところです。これらの線刻デザインは52段ある階段の全てに見られるわけではなく、最初と最後の箇所だけです。初めと終わりに現れる模様ですから、意外と発見しやすいのかもしれません。
亀甲紋の上段に見えるのは唐草文様ですね。
先っぽがくるっと丸まり、こちらも縁起の良さを感じさせます。お刺身料理のツマとして付ける唐草大根などは、この唐草を模したものです。大根の葉っぱに斜めに包丁を入れて水に放ち、時間の経過と共にクルッと丸まるのを待ちます。婚礼料理をお出しする時などは一度に50人分の唐草大根を作る必要があるのですが、その際はボールに張った水の中でお互いの唐草大根が絡まり合って大変なことになります(笑)
こちらは石段最上部に見られる青海波と網代です。
今回はちょっと撮り損なってしまったのですが、網代のさらに上段には菱形が連なる菱紋も見られます。
写真下段の青海波(せいがいは)は普段の生活でもよく目にする紋様です。波が高くうねっている様子が描かれているわけですが、普段私たちがよく目にしているのは、同心円状の半円が幾重にも重なる紋様です。分かりやすく表現するなら、Wi-Fiの通信中を意味するマークと言えばいいでしょうか(笑) スマホに表示されるWi-Fiマークを見ながら、私はいつも青海波文様によく似ているなと思ってしまうのです。正確に言えば少し違うのですが、パッと見はそっくりです。
二月堂石段の中でも探すのが難しいとされる「ますかけ」。
本来、枡掛(ますかけ)という言葉は枡掛筋(ますかけすじ)のことを意味しています。長寿の手相とされる縁起物ですが、こちらのデザインは手のひらの中央を一本横に貫く「ますかけ線」からは似ても似つかない模様です。どういう意味だろう?と考えてみるのですが、そもそもこの模様は複数描かれているわけでもなく、一つだけぽつっと現われているに過ぎません。つまり、人の手によって描かれたデザインではない可能性が大です。
何段目だったかは確認不足なのですが、よく下を見ながら階段を上っていると見つけることができます。
結婚披露宴の鏡開きなどでも使われる四角い枡の中に、バッテン模様が入っていると想像すればいいでしょうか。バッテンは掛け算の × にも通じます。要するに ”枡に掛け” でマスカケなのではないかと思われます。このマスカケ印を踏めば、ご利益に授かれるという都市伝説めいた話も聞かれますが、要は気持ちの持ちようですね(笑)
砂時計、あるいは蝶ネクタイのような模様も見られました。
東大寺の長い歴史の中で、参拝客の誰かが描いた模様なのでしょうか。一筆書きで描けるところを見ると、どこかセーマン印を思わせます。星形を一筆で描けばセーマンになります。小中学生時代に誰もがノートに描いたことのある模様ですね。安倍晴明や海女さんでもおなじみの吉印ですが、この蝶ネクタイ模様も簡易ではありますが、なぜか縁起を担いだ模様に見えなくもありません。
二月堂から西を望めば、東大寺大仏殿の屋根を確認することもできます。
華厳宗大本山の東大寺は、ユネスコ世界遺産にも登録される名刹です。
神亀5年(728)に、聖武天皇が草創した金鐘山房にまでその歴史は遡ります。後に大和の国分寺、さらには大仏造立により東大寺となり、官大寺としての偉容を国内外に示しました。
二月堂の絵馬。
良弁椿が描かれていますね。
良弁椿とは、修二会(お水取り)の本行中に本尊・十一面観音の仏前に供えられる造花の椿のことを言います。二月堂では良弁椿をモチーフにした御守も販売されており、さすがにお水取りの霊場であることをうかがわせます。
飯道神社、不動堂、若狭井を巡る
二月堂の手水舎から右手後方奥に飯道神社という鎮護神が祀られています。
飯道神社は滋賀県の修験道霊場として知られるお社です。その飯道権現が東大寺二月堂の守護神として祀られています。
飯道神社。
手水舎の脇に石段があり、そこを上って行くと小さな社殿が姿を現します。
二月堂のお水取りにおいて、最初と最後にお参りされる三社が興成神社・飯道神社・遠敷神社で、いずれも二月堂鎮守の神とされます。二月堂練行の神社であり、三社とも実忠和尚の勧請と伝えられます。
本社は滋賀県甲賀郡雲井の海抜664mの飯道山の直下にあり、和銅4年(711)熊野本宮より勧請された修験道の霊場でもある。奈良時代に神宮寺として飯道寺があり、明治期まで存在していた。
二月堂の南東にある当社は、弘安6年(1283)頃にその井垣が修理されているので、鎌倉中期以前からの存在が確認される。但し、二月堂寛文の再建にあたり形式の変更があった模様。
東大寺はお寺なわけですが、広大な寺域には幾つかの神社も見られます。
東大寺に神社とくれば、東大寺の守り神・手向山八幡宮をまずは思い浮かべます。向い鳩の神紋が印象に残る神社ですが、東大寺三月堂のすぐ目の前に手向山八幡宮の石鳥居が建っています。石鳥居向かって左手の坂道を上って行けば、東大寺不動堂が佇みます。さらに不動堂から北へ取り、西へ下りて行った所に飯道神社が鎮まります。
祠の前面に注連縄が張られ、小さな鈴緒がぶら下がります。
こぢんまりとした神社ではありますが、高台から二月堂を見下ろす場所に鎮座しています。
祠の左手前に、何やら不思議な空間がありました。
四角く囲われた場所は聖域なのでしょうか。
色々調べてみると、節分の豆まき行事の際、、飯道神社上の壇において古い札を焼く還宮が行われるそうです。まさにその場所ということでしょうか。2月3日の豆撒き当日は、午後2時より二月堂舞台上から福鈴と福寿の豆まきが行われます。
飯道神社から右手に伸びる道を辿って行くと、その先に不動堂が姿を現します。
東大寺不動堂。
飯道神社もそうですが、この不動堂周辺にも観光客の姿は見られません。ここが東大寺とは思えないぐらいの静けさが辺りを支配しています。
不動堂の前にお地蔵様が祀られていました。
不動堂向かって左手には社務所のような建物が見えます。御朱印も頂けるようですので、御朱印巡りをされている方は是非お声をかけてみて下さい。
お不動様らしく、護摩法要も定期的に行われているようです。
今年の正月、たまたま通りかかった山の辺の道の玄賓庵で護摩焚きを見学させて頂いたのですが、熱く燃えたぎる火を見るだけで有難い気分になります。パチパチという音と共に火の粉が舞い、舞い降りてくる灰を一身に浴びます。
二月堂も相当な高台に位置していますが、さらにその上手に不動堂が佇んでいることを知らない人も多いのではないでしょうか。
赤い鈴緒が下がります。
大聖不動明王と書かれた提灯が見えます。「不動堂」の書がまたいい味を醸していますね。書は日本人の心、諸外国の方から見ても興味の対象になっています。不動堂のお不動さんを拝観したわけではありませんが、この書にも不動明王のイメージが反映されているのではないでしょうか。一画目の入り方はどうするのか、全体のバランスをどう保つのか、そういったことがきちんと計算されてしたためられているのかもしれません。
再び不動堂から北へ向かうと、右手に観音像が祀られていました。
蓮華座の上に坐し、頭上にはたくさんのお顔が見えます。十一面観音様でしょうか。
飯道神社前の石段を下り、さらに二月堂の五十二段を下ります。右手に目を向けると、何やら鄙びた風情の建物が視界に入ってきます。
若狭井戸。
東大寺のお水取りに深く関係する井戸です。
東大寺修二会(お水取り)は創建者・良弁僧正の高弟である実忠(じっちゅう)が天平勝宝4年(752)に始めた行事です。その正式名称を十一面悔過法と言い、日常犯している過ちを十一面観音の御前で懺悔します。大導師を筆頭に、11人の練行衆がそれぞれの役割を担ってお水取りに参籠します。
僧侶たちは私たちに取り代わって懺悔し、その幸福を祈ります。二月堂ご本尊である観音菩薩との仲立ち役を務めて下さるのが練行衆というわけですね。2月28日から本行に入り、約2週間にわたって続けられます。日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝(じんじょう)の毎日6回、荒行を修めることから六時の行法と呼ばれます。
若狭井戸から二月堂を望みます。
3月12日の深夜、二月堂下の若狭井(閼伽井屋)から水を汲み出し、ご本尊に供える行事がお水取りなのです。
3月12日から14日の後夜、約40kgもあると言われる松明を打ち振って練行衆が二月堂堂内を走り回る姿はニュース映像などでもよく知られるところです。達陀(だったん)と呼ばれる行法ですが、その派手さから東大寺きっての呼び物にもなっています。その一歩手前、観光客を呼び寄せるパフォーマンスの前に執り行われるお水取りにも注目してみたいですね。
「若狭井」と刻まれた石が立ちます。
この若狭井、実は若狭国(福井県)の小浜と水脈がつながっていると伝えられます。
本当か否かは定かではありませんが、若狭井戸にはとある伝説が残されています。
東大寺の実忠和尚が、修二会行法中に「神名帳」に書かれた全国一万七千余の神様の名を読み上げて参集を求めたそうです。そうすると、全国に散らばる神々がすぐに集まって来たと云います。そんな中にあって、若狭国の遠敷明神だけが川で魚釣りをしていて遅刻しました。
それに対して、他の神が口々に遠敷明神のことを咎めたそうです。遅刻を責められた遠敷明神は、「これは申し訳ございません。お詫びとして、ご本尊にお供えする霊水を若狭からお送り致します」と言い、二月堂下の大岩の前で祈りを捧げられました。
するとどうでしょう、大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜が飛び立ちました。さらにそこから霊水が湧き出したというではありませんか。実忠和尚はこれをお供えの水とし、その逸話に彩られた井戸が今も二月堂の下手に静かに佇んでいます。
私はなぜか、若狭の地名から甘鯛の「若狭ぐじ」を連想します。暖流と寒流の交わる若狭湾で育った甘鯛は最高級の魚の一つに数えられます。今も日本の食卓を潤す漁場として知られる若狭湾ですが、若狭と聖水が自然な流れで頭の中で結び付くのを感じます。
若狭井戸の前でしばしの時間を過ごした後、四月堂脇の石段を下りて、お土産物屋さんの横を抜け鐘楼のある方向へと向かいます。鐘楼の手前左側に白い建物が見えて参りました。
消防車の車庫になっているのでしょうか。
国宝や重文がひしめく東大寺境内を火の手から守るには、やはり間近に消防自動車が待機していると安心です。
東大寺念仏堂、行基堂、俊乗堂、辛国神社にお参り
東大寺創建以来の国宝と伝わる東大寺鐘楼。
その迫力には気圧されるものがあります。
大仏殿の東方丘に佇む鐘楼が見えてくると、その巨大さに皆一様に驚きの声を上げます。
休憩処と東大寺鐘楼。
奈良太郎の愛称で親しまれる鐘ですが、大晦日の夜には除夜の鐘として撞かれることでも知られます。鐘があまりにも大きいため、先着順に8名ずつ程の組になって綱を引くことになります。一人で撞くと、撞木に引っ張られてタイミングを外してしまうことにもなりかねません(笑)
鐘楼の東側に佇みます。
堂内にはふくよかな体躯の地蔵菩薩坐像が安置されています。念仏堂は鎌倉時代の重要文化財に指定される建築物で、朱色の扉が映える美しい外観です。
お堂の向かって左手に解説文がありました。
寄棟造の念仏堂は、もとは地蔵堂と言われ、鎌倉時代の建物であるが、屋根は江戸時代に改修されたものという。堂内に安置された本尊地蔵菩薩は、仏師康清が嘉禎3年(1237)に造仏したもので、重要文化財に指定されている。
毎月5日と春秋2回の彼岸に法要があり、毎年8月11日には戦没者慰霊法要が営まれている。
仏師康清は運慶の孫に当たる慶派仏師です。
ご本尊の地蔵菩薩も重要文化財に指定される仏像で、母性を感じさせる優しい雰囲気に満ちています。今回はお堂の中を参拝しませんでしたが、次回訪れる時には是非拝観させて頂こうと思います。
念仏堂の屋根に注目です。
二段構えになっていますね。途中で段を作る錣葺き(しころぶき)と言われる技法です。江戸時代の元禄年間に改変されたものと伝わります。
錣(しころ)という言葉から、大相撲の元寺尾関・錣山親方を想像してしまうのですが(笑)、そもそも錣とは何なのでしょうか?辞書を紐解いてみると、兜の鉢の左右から後方に垂れて頸(くび)を覆うものと解説されています。念仏堂の屋根に再び目をやると、なるほどと納得してしまいます。錣(しころ)のように重なった屋根の葺き方だから、錣葺(しころぶき)と言うわけですね。
東大寺念仏堂は、治承4年に東大寺を炎上させた平家の防波民部大夫重能らの罪根を救うため、俊乗坊重源が発願して造立されているそうです。敵であった平家をも包み込む寛大な心が感じられるお堂です。
念仏堂の向かって左手に佇む行基堂。
東大寺再建に功のあった僧の行基を祀るお堂です。
近鉄奈良駅前の行基像は待ち合わせスポットとしてつとに有名ですが、鐘楼ヶ丘の片隅に建つ行基堂をご存知の方はそう多くはないのかもしれません。
行基堂(ぎょうきどう)江戸時代
このお堂は、もと俊乗房重源上人坐像が安置されていたと言われている。方一間、円柱、本瓦葺で頂上に鉄の露盤と宝珠をのせ、宝形屋根を形作っている。正面に向拝をつけ、角柱また正面と向拝に蟇股をすえ、江戸初期の建物と見られる。内部には寄棟造り・唐様の厨子を安置して、竹林寺の旧像(現在唐招提寺移安)を模して造られた行基菩薩坐像が祀られている。
この像は、当初公慶上人によって造立が始められたが、未完成のまま中止されていたのを弟子の公俊が遺志を継ぎ、享保13年(1728)4月に即念法師と仏師賢慶に命じて造らせたものである。賢慶は大仏殿の脇侍菩薩を制作した東大寺仏師として知られる。
竹林寺と言えば、行基の墓がある生駒市のお寺です。
天平21年(749)に喜光寺で入寂した行基。その遺言により、弟子たちの手で生駒山東稜で荼毘に付されます。墓を築き、行基像を往生院に祀って竹林寺奥院と号したそうです。最終的には東大寺仏師によって完成を見た行基像が、このお堂の中には安置されています。
行基は百済の帰化人の子孫と言われます。
大仏造立を目指す聖武天皇にとって、民衆から篤い支持を集める行基は非常に有難い存在であったと思われます。世界を遍く照らし出す毘盧遮那仏を造るに当たり、民衆一人一人からの思いを集める必要がありました。ただただ権力に物を言わせて大仏を造立したのでは意味が無かったのです。権力や財力も持ち合わせていない、一人一人の民衆からの思いを掬い取っていく過程こそが、大仏造立の目的であったとも言えるでしょう。
そのために、普段から貧民救済に始まり、治水や架橋などの社会事業活動を行い、民衆から絶大な支持を得ていた僧・行基に白羽の矢が立ったのです。聖武天皇から大仏造立の勧進に起用された行基は、今も東大寺四聖の一人に数えられる高僧です。
行基堂から俊乗堂に足を向けると、右手に十三重石塔かと思わせる残欠部分が残されていました。
果たしてこの場所に何が建っていたのでしょうか。
背後に回って撮影。
向こう正面に見えるのが鐘楼、右手には俊乗堂が佇みます。
緑色の苔を冠した残欠塔が、誰に気付かれるわけでもなくひっそりとその姿をとどめています。
鎌倉時代の東大寺再建に尽力した俊乗坊重源を祀っています。
現在の東大寺南大門を建立した再興の祖・重源をお祀りするお堂です。堂内に安置される重源上人坐像は、鎌倉時代の傑作で国宝に指定される仏像です。
俊乗堂の解説パネル。
この俊乗堂は、大仏殿江戸再興の大勧進公慶上人が、鎌倉復興の大勧進重源上人の遺徳を讃えて建立されたもので、堂内中央には国宝「重源上人坐像」が安置されている。俊乗房重源は、保安2年(1121)京都に生まれ、13歳で醍醐寺に入って密教を学び、仁安2年(1167)入宋して翌年帰国。治承4年(1180)平重衡による南都焼き討ちで伽藍の殆どが焼失したが、60歳で造東大寺司の大勧進職に任ぜられた重源は、十数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げられた。
再興にあたって、大仏様(だいぶつよう)とよぶ宋風建築様式を採り入れ、再建の功により大和尚(だいかしょう)の号を受け、建永元年(1206)86歳で入滅された。
毎年7月5日の俊乗忌と12月16日の良弁忌に参拝することができます。但し、法要終了後(時間制限あり)で有料(東日本大震災支援募金に充当)です。
12月16日は東大寺にとって大切な日とされます。
初代別当を務めた良弁僧正坐像が公開され、重源上人坐像や三月堂(法華堂)の国宝・執金剛神立像も同時に御開帳されます。さらには、来年のお水取りに参籠する練行衆11人が発表されるなど、東大寺のメモリアルデーとも言うべき一日となります。
鐘楼の周りの念仏堂、行基堂、俊乗堂に手を合わせた後、鐘楼ヶ丘から大仏殿へ続く石段を下ります。しばらく歩くと、右手に朱色の鳥居が見えて参りました。
辛国(からくに)神社。
別名天狗社とも呼ばれるお社です。
辛国神社の御祭神は韓国翁で、東大寺造営に尽力した朝鮮半島からの技術者の祖神が祀られています。西に大仏殿を見下ろす場所に鎮座する神様で、その立地からも重要性がうかがえます。
なぜ天狗社と呼び習わされているのか?実は東大寺を創建する際、様々な障害をもたらしたのが天狗だったと言われています。その天狗たちを良弁僧正が改心させ、仏法護持を誓約させて祀ったと伝わります。
辛国神社の拝殿でしょうか。
馬道のように中を通り抜けることができます。
手水鉢に「辛国社」と刻まれていました。
東大寺では古くから、大きな法要の前日に僧たちが境内を巡って安全を確かめる蜂起之儀(ほうきのぎ)という儀式が執り行われています。
僧侶たちは鐘楼ヶ丘下の大湯屋で無事を祈った後、境内の見回りに出発します。まずは猫段横の辛国神社で祈願文を読誦し、松明を手にした従者を伴って法螺貝を吹きながら境内を1時間ほどかけて練り歩きます。ここは大切な法要に際し、天狗の妨害封じを祈る儀式が綿々と受け継がれるお社なんですね。
本殿の前に提灯が下がります。
御神紋が描かれていますね。一瞬蝶がデザインされているのかなとも思ったのですが、よく見てみると団扇です。天狗の葉団扇が提灯にデザインされています。
東大寺大仏殿の周りを歩いてみると、実に様々な発見があります。
今回ご紹介した仏堂や神社の他にも、大仏殿西方には指図堂、勧進所、戒壇院などの建物があります。
さらに北方の正倉院から北東方向には知足院という塔頭寺院も見られます。東大寺中門前の五百立神社なども穴場スポットではないでしょうか。
東大寺の大仏があまりにも有名なため、その周辺にまで目がいかないのかもしれません。しかしながら、たまには東大寺観光の黄金ルートを外れて散策してみるのもオススメです。
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